第15回
 炭鉱を出る時4歳だった克巳にとって、ここの生活の記憶はあまり定かではない。ただ大きな音をたてて風呂が揺れていたのと、背中に入れ墨のある恐いお兄さんがお風呂に入っていたのを覚えている。1日中地底で働き、炭じんで真っ黒に汚れた身体を洗いおとす浴場は、仕事あがりの坑夫たちにとってオアシスだったろう。浴槽はすぐにドブ水のようになったという。多分浴槽は二つあり、炭坑で働かない老親や子供たちは二つ目から入ったと思うのだが確かでない。
 今のようにシャワーの設備があった訳でもなく、真っ黒に濁った湯を抜き、又水を溜め、風呂をわかす仕事も重労働だった。2交替制の坑夫達の為に、昼間は妻が、夜は夫が交替して風呂をわかし続けた。時には子供らも手伝ったという。風呂焚きを請負った人の坑夫達への熱い思いを語っている記事を見つけた。給料のあまりの安さに誰ひとり請負う者がなかった時に風呂焚きの仕事をすすんで選んだのだ。
 大きな音をたてて風呂が揺れていたという克巳の記憶に納得する。炭坑には囚人や強制労働者、支度金等をもらって働いている前借り労働者がたくさんいた。その人達が逃げ出さないように事業主から監視人として雇われている人達が、幼い克巳から見れば恐い入れ墨のお兄さんなのだ。囚人や強制労働者は風呂に入れたのだろうか。炭じんを洗いおとすこともできずに、真っ黒に汚れた身体のまま眠りにつく悲しみを思った。
 父の出身地「永谷」の写真を違う角度から何枚も写した。西川炭坑のあった地に建つ町営住宅の方にもカメラを向けた。父への何よりの土産だからだ。車は泉水炭坑の方へ走り始めた。少し山の手の方へ入っていく。しばらく行くと今にも崩れ落ちそうな泉水炭坑の炭坑住宅が残っていた。軒の低いトタン屋根のみすぼらしい家。台所部分には煙突が立っている。窓の横には赤いポストもついていた。庭は草が高くのび屋根の高さまで届いている。
 四十数年前までは、この家からも明かりがともり、笑い声や泣き声がしたのだろう。藤田さんも「知らなかったなー」とつぶやきながら立っていた。私は車を降りて、何枚かの写真を撮った。実際に炭坑住宅を、この目で確かめられたことは幸運だった。「ぼちぼち引き上げますか」藤田さんの言葉に時計を見たら11時40分だった。折尾駅まで40分はかかるので、3時間貸切のタイムリミットの時間だ。「帰りは中間市を通ってもらいたいんですが、遠回りになりますか?」と問うたら時間もそんなに変わらないし大丈夫ですよと快く受けてくれた。
 中間市はカヨの故郷である。西川炭鉱と折尾市のちょうど真ん中に位置する静かな田園地帯だ。おだやかな春の日差しの中、車はカヨの生まれ育った中間市内をゆっくりと走っている。私はじっと見つめていた。カヨの故郷から西川単行、折尾市内とカヨの心の宇宙に迫りたくて歩いた私の取材旅行はもうすぐ終わろうとしている。
 自分の心に正直にひたむきに激しく生きた祖母の生きざまは、私の心を熱くした。なにもかも捨てて彼の胸の中に飛び込んだよりも、もっと大きな勇気と覚悟がなければ再び祖父や父のもとには戻れなかったはずだ。
 祖母は父の結婚を風の便りに聞いて意地やプライドをかなぐり捨てて、許しを乞いに帰ってきた。やがて生まれる孫を抱くために、孫である私と出会うために。そう思うことにした。
 「みっちゃん、ありがとう」優しい祖母の声が聞こえた。(完)
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