第7回
 悦喜の心の中には名をあげたいという野望があったと思うし又才覚もあった。カヨは悦喜の激しい生き方に惹かれ、商売の才能を信じた。毎日確実に増えていくお金そのものの為に辛い仕事も明るく耐えたかもしれない。
 魚屋、豆腐屋から出る残飯利用を考えていた悦喜は、養豚業を決意しぶどう山の一角を買って養豚業を始めた。この多角的経営は成功して、信じられないくらい儲かり、ふたりには陽の当たる時代が続いた。その頃日本国内には不景気の嵐が吹き荒れ治安維持法が成立した。血なまぐさい事件が起こり、日中戦争、第2次世界大戦へと突き進んで行く重苦しい時代の始まりでもあった。
 悦喜の養豚業が軌道に乗り、しばらくしてぶどう山全体を買ってほしいという話が持ち込まれたそうだ。悦喜は考え悩みそして断った。料亭を建てるという夢の実現の為に。ぶどう山を買っていれば、賢い選択になった。戦後農地は解放され、紙幣は紙くず同然となった。しかし山野はそのままだった。ぶどう山は今、学園都市と住宅地に様変わりしている。
 悦喜は巨大な富を手に入れたことになる。悦喜の分岐点となった決断だった。晩年、祖母は母に豆腐屋時代の事を話した。「あの頃、みんながお金がない、生活が苦しいと言うのが不思議でしょうがなかった。豆腐1丁も買えずおからだけ下さいと言う人には大盛りのおからをタダであげた。家の中にはお金はいっぱいあった。あの頃お金の苦労なんかしたことなかった」と。
 その話がうそではないことを私は自分の目で確かめることができた。豆腐屋から歩いて15分。八幡西区鷹見町九に鷹見神社がある。昭和三年から建て始め昭和四年十一月完成と記されている。大木に囲まれた静かな神社だ。本殿までには高い階段があり、その階段の横に石柱が並んでいる。
 この神社を建てる時に寄贈した篤志家の名前と金額が書いてあった。下から5段目の石柱に、金百円、池田悦喜と確かに書いてある。胸が高鳴った。祖父母のルーツを捜す旅において、ひとつの確かな証を見つけたのだ。
 いちばん上段の石柱には、神社の敷地と五千五百円寄贈、三好徳松と書いてある。三好徳松という人の話は父から聞いていた。40歳まで炭鉱で働き、炭鉱経営を始め、一代で炭鉱王まで登りつめた伝説の人物。折尾駅近くに2千坪の宅地を求め、みごとな自宅があったそうだが、今は市の公園になり、市民からつつじ公園と愛されている。
 多数の死者を出した炭鉱事故が引き金になり事業を失敗したとか、いろんなうわさを父も聞いたのだが事実はわからず、三好徳松は折尾の町から姿を消した。
 しかし、この鷹見神社は三好徳松というひとりの男の力なくしては建立できなかったのも事実だろう。(つづく)
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