第3回
 2002年3月、私は小倉行きの汽車に乗った。風が強い日だった。
 今晩泊まる宿だけ予約してのひとり旅である。目的地は遠賀川沿いの<折尾>。熊本駅からの所要時間は1時間40分。平日の午前の汽車は空いていた。しばらくの間は窓に顔をくっつけるように流れいく風景を見ていた。
 私は24歳で結婚をし、夫の仕事の関係で何度か転居したが、昭和52年実家の隣に家を建てた。庭続きに祖母の部屋があり、晩年の祖母と向き合って毎日を過ごすことができた。その時祖母は78歳だった。
 あの日の父と祖母の光景も奇妙に心に焼き付いている。
 暑い暑い夏の夕方だった。
 風呂あがりの肌に祖母はまんべんなくクリームをぬりこんでいる。背中が少し曲がりお腹がちょっと突き出た、ショーツ1枚の祖母が鏡に向かって無心にクリームをぬっている。
 その姿を、父は複雑な表情を浮かべて見ていた。
 私と目が会うと、父はあわてて祖母の部屋の前を離れた。
「80も過ぎたばあさんのくせに、あがん見苦しか格好でクリームばぬりたくって」
 父の言葉は冷たかった。
 父はいくつになっても残っている祖母の中にある女の部分が許せなかったのだ。
 80歳を過ぎても粋に着物を着こなし、薄化粧を欠かさぬ祖母は美しかった。若い頃どんなに美しかったろうと私は思った。それにひきかえ祖父は花沢徳衛という渋い脇役俳優によく似た愛嬌のあるびしゃげた顔をしていた。
 祖母が誇らしげに語っていたことがある。
「小学校2年と3年は若か男の先生が担任だったと。走って学校に行くと、カヨちゃんはかわいか。なんでこんなにかわいかね。そう言いながら、教室の皆の前で抱き上げてくれなはったとよ」と。
 好きな学校へも毎日は行けずに子守の仕事をさせられていたカヨ。学校に行ける日、その日はカヨにとって心弾む嬉しい日だった。頬を真っ赤にして駈けてくるカヨが若い正義感にあふれる先生はいとおしかったのだろう。
 娘の頃は共同風呂を覗かれたり、秋祭の夜は夜這いされて、やっとの思いで逃げ出したりとずいぶんもてた話も聞いた。カヨの村では秋祭りの夜は、好きな女の所へ男が押しかけ、相手方が納得ならば結ばれるという慣習があったそうだ。
 晩年の祖母の幸せは曾孫<私の娘たち>とのふれあいの時間だった。
「おおきいばあちゃん、テレビを見せて」
娘たちがテレビを見にくる時間はおやつを用意して待っていた。<日本昔話><走れジョリー><タッチ>等みんなで炬燵で丸くなって見ていた。
 ベッドで顔をくっつけるようにして昼寝していた祖母の優しい顔とあどけない子供らの顔が浮かぶ。
「花はよかね。美しか」とつぶやきながら小さな草花を育てることも好きだった。水仙、椿、さつき、あじさい、都忘れ等祖母が愛した花達は、祖母が亡くなった後も季節を忘れずに咲いている。(つづく)
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