第13回
 ――― 福岡県の北部を縦走して玄海灘にそそぐ遠賀川の流域一帯、7市4郡にわたる筑豊炭田は、ほぼ一世紀に近い年月にわたって全国の総出炭量のおよそ半分に及ぶ量の石炭を産出しつづけ、日本最大の火床として繁栄をほこった。わが国の資本主義化と軍国主義化を推し進める重工業の歯車が、この黒い熱エネルギーによって廻転した。三井、三菱をはじめ大小もろもろの財閥が、この地底から富をすいあげて今日の基礎を築き上げた。……
 ……土地を追われ、職を奪われ、地上で生きる権利と希望のいっさいをはぎとられた農漁村、労働者、部落民、囚人、朝鮮人、捕虜、海外からの引揚者、復員兵士、やけだされた戦災市民それぞれの時代と社会の十字架を背負った者たちが、たえるまもなくこの筑豊になだれおちてきた。……―――
 上野英信の「追われゆく坑夫たち」の序文の一節である。上野英信は昭和22年に京都大学を中退して炭坑に入り、昭和32年までを坑夫として働いている。本当の炭坑の生活を知っているのだ。
 朝鮮や中国から拉致した人々を強制労働させたという話は聞いていたが、囚人が居たというのは知らなかった。
 資料で調べてみたら、昭和5年、囚人坑夫の使役禁止という法律ができるまでどこの炭坑にも囚人は居た。普通の坑夫は良民坑夫と呼ばれ、囚人は囚人番号〇〇号坑夫と番号で呼ばれた。宿舎は監獄であり、炭坑までの移動は二人一組で鎖につながれて行動した。
 監獄の食事は粗末なもので、米粒を探すのに苦労するような麦飯。その麦飯に朝は味噌の匂いがかすかに漂う味噌汁が一椀。昼は野菜の煮物が一皿。夜はいりこの味噌漬か魚の干物であった。それに漬物が二切れずつついていた。貧しく、少ない食事の量に比べて、炭坑の仕事は重労働である。まして囚人達の坑内での苦役は残忍だったと記されている。少しでも休むと看守のムチが飛んだ。
 落盤、爆裂、爆発、ガス突出等炭坑で働く人にとって死はいつも隣り合わせである。囚人達には事故死よりも、病気が多いのも胸が痛む。
 事故死と一口でかたづけられているが、中には爆発の延焼を防ぐために、地底で働いている何人、何十人の命を犠牲にして、坑道口を防ぎ水を入れる方法を取った事業主もいる。
 それぞれの炭坑で、こんな悲しい事故は現実にあった。
 私は炭坑に関する知識はない。旅行前にあわてて3冊の本を読んだ程度だ。
 胸が痛くなるような記事や写真が浮かぶ。食べるものがなくて水ばかり飲んで寝ている子供の顔。遠い福岡市まで6時間もかけて歩き銀行で血を売り、そのお金で子供らに食物を買えたと笑っている坑夫の顔。腰の曲がった老婆がこぼれた石炭を拾い集めている姿。
 多くの人達の血と汗と涙。喜び、悲しみ、憎悪の染み込んだ筑豊の炭坑地帯。
 今、車は遠賀川に沿って鞍手郡に向かっている。汽車の線路も続いている。藤田さんが、「これは室木線です。ここが終点の室木。ここからずっと小山が続いていた。山の上からトロッコで石炭が運ばれ、汽車に積む。汽車は若松と室木間を1日に何回も往復したもんです」と教えてくれた。(つづく)
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