第8回
 豆腐屋から国道3号を福岡方面に100メートル、豆腐屋と反対側に料亭の印がついている。料亭の名前は祖父の悦喜の名前を一字とって「喜楽」とついた。克巳が5年前に折尾市を歩いた時には「喜楽」だけは残っていたので、どこかで期待していただけに、その地が駐車場になっているのには失望した。現住所は八幡西区折尾4丁目7となっている。
 駐車場を端まで歩いてみた。フェンスの向こう側は小さな川が流れている。昔は清流でメダカや小魚が泳いでいたそうだが、今はドブ川一歩手前という現状だ。この小川の前に母屋があり、国道側に「喜楽」があった。300坪の敷地に総2階の料亭と母屋があったにしては、この駐車場は細長でちょっと狭いような気がした。隣には新しい家が建っている。駐車場とこの住宅地を合わせた一角が、悦喜が全財産をはたいて勝負にでた地なのだと気づいた。
 克巳が中学4年生の時から26歳まで住んだ地でもある。昭和12年、「喜楽」は開店した。悦喜は「喜楽」の板長として数人の板前を使い、カヨは粋に着物を着て、女将として数人の女中さんを使った。遅くまで帳簿もつけた。2階に通じる階段が大きくて立派だったのと、欄干の見事さを克巳はよく覚えている。一部屋一部屋の調度品、庭の木々の品定めにまで、二人は情熱をかたむけたのだろう。後に追われるように折尾を離れた時、悦喜は木箱に、お皿5枚とぐい呑みセットを収めた。その箱は69歳で亡くなるまで、祖父の宝物だった。
 料亭の斜め前に、当時折尾警察があった。昼ご飯時になると、何人もの警官が交替でタダ飯を食べにくる。権力の力を傘にしてと父はおもしろくない顔をして話したが、私は違うと思った。水商売がうまくいくようにとの思いと、警察の力を以て何者からも守ってやるというふたつの思惑が一致したのも確かだろうが、カヨは若い警官の人達に母親のような気持ちで接していたのだと思う。
 「ご飯は山のように炊くとだけん、遠慮せんでしっかりたべんしゃい。お腹いっぱいでないと仕事もできん。たまには母ちゃんの顔も見にいかなんとよ」と話しかけながら、カヨは台所できっとニコニコ顔で給仕をしていただろう。カヨならきっとそうする。そんな面倒見のよさがカヨにはあった。魚屋、豆腐屋は近所の様変わりも激しく、隣組もすっかり変わっていたのに、「喜楽」の隣組は、汐先、小園、平島と父のメモ通りに家があった。先祖代々この地で生活している。
 「喜楽」のことを聞いてみたいという思いがあり、しばらく立ち止まった。小園さん宅の前だった。庭の方から声がして、垣根ごしに覗いてみたら、スイトピーの花の中で、2歳位の女の子と若いお母さんが笑いあいながら洗濯物を取り入れていた。
 祖父母も亡くなり、父は80歳になった。60数年前も前に賑わっていた「喜楽」の話等こんな若い人から聞けるはずもない。
 カヨはこの「喜楽」で、いつ彼と出会ったのだろうか。(つづく)
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