第6回
 克巳はその頃、わんぱく盛りの少年だった。
 4歳から小学校3年生までを過ごしたこの地の思い出も多い。
 魚屋と道路を隔てた向い側には<折尾劇場>という芝居小屋があった。芝居、映画、なにわぶし…と年中なにかしらの演しものがかかっていた。この小屋のオーナーは野村さんといい、その息子と克巳は遊び仲間だったので、いつでも自由に芝居を見たそうだ。
 小屋の後はなだらかな山で、通称ぶどう山と呼ばれ、子供達の遊び場だった。ぶどう山は山の幸も豊富だ。わらび、ぜんまい、竹のこ、たらの芽、ふきのとう等子供らの持ちかえる自然のおみやげは母親達を喜ばせただろう。
 折尾劇場のあった場所は、現在、折尾女子学園法人本部となり、克巳の遊び場だったぶどう山一帯は学園都市に変わっている。折尾女子学園中学校、高等学校、経済短期大学等。経済短期大学の門が開いていたので入ってみた。門からの傾斜はすごい。息をはずませて登ってみると、正面玄関までのアプローチに桜の花々がみごとに咲いていた。若い女子学生の一団が笑いながら歩いていた。
 克巳の思い出のぶどう山などどこにもない。
 数年後、悦喜はぶどう山の一角を買って養豚業を始めるのだが、そのことは後で述べる。
 折尾駅のすぐ裏手<西口>を2、3分歩くと福岡に通じる国道3号と今夜泊まる芦屋方面に向かう学園通り、2本の大きな幹線道路が交差している。父の地図では浅川通りとなっていたが、<法人 福原学園>の進出により高等部、短大部、大学が建ちこの辺は学園都市になった。道路の名前も浅川通りから学園通りに変わったのだと、露天で野菜を商っていたおばさんは言った。
 その交差点の角地が豆腐屋のあった場所。
 克巳が小学校4年生から中学校4年生まで7年間住んだ地だ。
 今は<土地、家、売買仲介、アパート賃借龍造寺不動産>という大きな看板を揚げた不動産屋である。
 近代的な冷たい感じのするビルからは昔の豆腐屋の面影など見つけることはできない。
 でもこの一等地に土地を買い、豆腐屋を開店させた時、祖父母はどんなに嬉しく誇らしかっただろう。
 豆腐屋時代がふたりの全盛時代とかさなる。魚屋の商売も成功して借家だった住居も買い取り自宅となった。長年手伝ってくれた夫婦に魚屋はまかせて、ふたりは豆腐屋稼業に専念する。豆腐屋は夜中の2時3時起きの厳しい仕事。魚屋だけでも食べていけるのに何がふたりの心をかきたて働いて働いて生きる道を選ばせたのだろう。(つづく)
バックナンバー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15
ページTOP