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その日の夜、戸田から電話が掛かって来た。以前渡した、電話番号を書いたメモを持っていてくれたのだ。
「昼間はどうも。仕事の事で相談に来られたもので」
「いいえ、あれって手話でしょう」
「そうです」
「上手ですね」
「仕事ですから。両親も兄も聴覚障害者ですから、家では子供の時から使っていますよ」
「家族であなただけが聞えるんですか」
「そうです」
「手話で話がうまく伝わるんですか」
「ええ、伝わります。手話の講習会を開いていますが、彼女は受講生なんです」
「ああ、結婚を迷っている人ですね」
「ええ、まあ。―手話を勉強されませんか」
「無理です」
「じゃ、いつか」
「それより、男の人にもマリッジブルーってあるんですね。彼女の気になる性格を発見したのですか」
「いえ、彼女ではなく家族なんです」
「あら、どんな家族なんですか」
「彼女には両親を、姉と妹がいて、姉も妹も結婚していてそれぞれ子供がいるんです。先日挨拶に行った時、姉の家族、妹の家族も来ていてそれは賑やかでした。僕にしてみれば大型台風がやって来たようでした」
「賑やかなのは苦手なんですか」
「うちの家族は手話で話をするので静かなんです。育った環境の違いと言うか、うまく合わせて行けるか心配になって来たんです」
「別別の所で暮すんでしょう。関係ないじゃないですか」
「そうなんですが、何かにつけてよく集まる家族らしいんです」
「じゃ、彼女もきっと明るい人なんでしょうね」
「はい、とてもいい女性です」
「じゃ問題ないじゃありませんか、お互いの気持ちが大切ですよ」
「もしかして、結婚されているんですか。近くに御主人がいらっしゃるとか」
「いいえ、いいえ、ノーです。別れました」
「ビックリしました」
「家具屋でお会いしましたよね、男と別れました、って言う顔をしてたでしょう」
「そんな事分かりませんよ。あの時椅子に座ったら、母親に抱かれているようでしたからいい気持ちになっていました。その後、あなたもあの椅子に座っていましたね。どうでした?」
あの時染まった体の色を見られてしまったのかも知れない。それを思うと胸の谷間がべっとりして来たので、受話器を持たない方の手でシャツの下から手を入れて拭いていると
「相変わらずあの椅子に抱かれていますか」
と聞いて来た。やっぱり戸田は分かっていたのだ。
「ええ、でも隣りに藤椅子も置いています」
「藤椅子ですか。それも抱いてくれるんですか」
「えっ、ええ。父が使っていた物ですが、私にとっても子供の頃の思い出があります。藤椅子と、新しい椅子を行ったり来たりしています」
「おもしろそうですね。少女になったり、女になったり出来て」
「あなたの結婚もおもしろそうですね。静かだったり、賑やかだったり、変化に富んで飽きないと言うか、退屈しない理想的な生活を送られるんじゃないでしょうか。そうしながら自分流の生き方が見つけられると思います」
「なるほど」
戸田は仕切りに納得したようだった。そして、それから何の言葉も発しなかった。
玉枝はしまったと思った。思わず舌打ちしそうになった。髪を一度うまく結い上げた時、早く誰かに見てもらいたくて、あわてて勢いよくピンを刺したら髪がはらりと見事に崩れてしまった時のようだった。はしゃぎ過ぎ。だから投げて来たボールを落してしまった。落ち着いてゆっくり丁度具合のいい所へピンを止めたなら、髪は思いのままの型でいたかもしれない。
電話は終った。また掛かって来る事はないだろう。そんな気がした。(つづく)
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