第10回
 ハローワークへ通うたびに、戸田純一と何気ない話をする機会は幾度かあった。
 話をすると言っても階段の昇降口の自動販売機が置いてある所で、いつも数人がお茶やコーヒーの缶を持ち、たむろしていて煙草の煙も立ち込めている中でだった。
 玉枝はここへ通っては来るものの、授業を受けない生徒のように、ウロウロ、ウロウロしては蛇口を閉めない水道みたいに、時間をタラタラ流していた。時間をタラタラ流すのは無駄遣いだと気付いた訳ではないけれど取り敢えず小休止と決め込み、いつものように何か飲もうと自動販売機の前に立ち、どれにしようかと迷っている時だった。
「こんにちは」
 と声を掛けられた。まわりにはいろんな声が飛び交っていても、聞き覚えのある声だったから
「あら、戸田さん」
 と当てられた。さすがに純ちゃんとは呼べず、そう呼んでいたので、正解した嬉しさと、距離を感じる複雑な一瞬でもあった。
「今日はどうでしたか」
 階段を二段か三段登った所で体をこっちへ向け、手摺りに両手をぶら下げていた。
「いいえ、なかなか見つかりません」
 そう答え、真面目に職探しをしていない事を見破られはしないかと、ヒヤヒヤした。
 いつもはここで話は終るのだが
「右から三番目のお茶、新製品らしいですけど、この間飲んだらおいしかったですよ」
 戸田は自動販売機のそのお茶を指差した。今日は珍しく両手が空いていて、何も掴んでいない手はいつもと違った表情を見せていた。緊張がなく柔らかで、細長い指先から親しみを込めた雰囲気を電光のように発していた。
 光を受けた脳はいい日だと鐘を鳴らせて知らせた。だからすぐ
「結婚するんですか」
 今、一番心に引っ掛かっていることを、さっき紹介されたお茶をゴクンと飲んだ口から、入れ替るようにポロリとこぼした。
 「迷っているんです」
 小さな声だったが、的を外していない返事をもらった。うれしくて続け様に
「どうしてですか」
 さっきより一歩踏み込んだ質問をした。すると
「うーん、いろいろありましてねー。それより椅子はどうですか、あれを作った人は女性ですよ」
 意外な事を言って来た。玉枝はあの椅子を作った人は男の人だと思っていた。最初に座った時、見ず知らずのあの椅子を作った人に抱かれたような湿り気を感じた。湿りはジワジワと体の奥に潜む芯の部分まで這って行き仕舞にはジャックされ、みるみる紅色に染まって行った。赤く満ちた花びらがはらはら散るのは誰もが惜しむように、玉枝も玉枝も湿りから来る悦びの中にいつまでも止まっていたかった。しかしその後はあなたに抱かれているようだったとせつないぐらい言いたくて、近くまで寄って行ったが戸田の目線は違う所へ移り、両手が動き出した。目線の先を見ると男の人がいて、その人も手を動かしていた。お互い笑顔になったり、曇り顔になったりしているから手で会話をしているのだろう。それから二人は階段を登って行ってしまった。
 戸田に会いにきた男の人は手箱を持って来たように思えた。その人がひょいと手箱を開けると、中から静かな不思議な空気が流れ、白いレースのカーテンを閉められたようだった。その向こうで戸田と男の人の手が動いていた。カーテンは薄くて柔らかいのに、強く遮られてしまい
「いい所があったんだけど、年齢が合わなくてね」
「もう少し高い給料をもらわないと、暮して行けないんですよ」
 ガヤガヤ、ザワザワ、話し声の密集地帯に玉枝はぽつんと取り残されてしまった。(つづく)
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