Vol.53 3.11以降[2011.05.11]
 東日本大震災から2カ月が経ちます。目の前の風景がなくなる、当り前の日常が断ち切られる、そんな現実に直面するとはどういうことなのか。また、被災した人それぞれにその時とその後の状況があることを考えると、どれほど多様な恐怖や驚愕、苦しみや悲しみ、困難や無念があることか。それらは私には想像するに余りあります。

 震災直後も、今も、メディアによる切り取られた映像や写真や言葉でしか現地を知らない私には、実際の惨状や被災者の気持ちを十分には分かっていないでしょう。それに、絶えた生命や崩れた人工物や噴き出たヘドロが一体となって発する異臭や、破壊された街が放つ粉塵を含む風がどんなものなのか、現地でしか感じることのできないものは想像するのも難しいです。

 しかし、そうやって感傷めく自分が恥ずかしくなるほど、被災地の人々は打ちのめされた心を奮い立たせ再生に向かい、その再生を支援する人々の気高い思いと力も得て、あの地震・津波という天災からの復興は少しずつ進んでいるようです。その一方で、解決が長引く原発事故という人災は、人々の心に重く暗いものをもたらし続けています。

 3.11以前も以降も変わらぬ風景の大阪に暮らし、いつも通りに仕事をしている私ですが、思うこと考えることは、3.11に大きく影響され続けています。久しぶりの本コラム、やはり、そこを避けることはできません。

 
CONTENTS
 
1.
日本の自然と無常観
 
2.
自然に対する「仕方ない」と社会に対する「仕方ない」
 
3.
原発をめぐるとてもシンプルなこと
 
4.
映画『100,000年後の安全』の警告
 
5.
科学技術の挑戦、日本の挑戦



1.日本の自然と無常観

 巨大なユーラシア大陸からほんの少し距離を置き、千切れた陸の小さな切れ端のように細長く隆起する島国、日本。ほんとにちっぽけで吹き飛んでしまいそうな国ですが、ここには豊かな自然があり、細やかで美しい四季の移ろいがあります。その四季折々の自然の営みに感応しながら日本人は独特の美意識を養い、さまざまな日本文化・芸能を育ててきました。その一方で、地震津波など幾度となく自然災害に襲われては立ち直り、数知れぬ災害の傷跡を残しながら歴史を刻んできました。

 今回の東日本大震災と類似点が指摘されている平安時代初期、869年(貞観11)の貞観地震(じょうがんじしん)は、震源地が三陸沖海底で震度M8.4と推定され、史料によると、雷鳴のような海鳴りとともに潮が湧きあがり、津波で海から数十百里の先までも大海原となったそうです。『方丈記』にも平安末期の1185年の地震津波についての記述があり、鴨長明は「…その様世の常ならず。山は崩れて河を埋(うず)み、海は傾きて陸地を浸せり…」と惨状を描写しています。

 日本人にとって自然は、恩恵を与えてくれるもの、愛で親しむものであると同時に、その脅威をまざまざと見せつけられることで、恐れ戦き、畏敬の念を抱く対象でもありました。自然を抗うことのできないものと感じるという風土を背景に、無常観や諦念といった日本人特有の心性も育まれていったのでしょうね。

2.自然に対する「仕方ない」と社会に対する「仕方ない」

 今回、被災地の人々の秩序ある行動や、我慢強さ、助け合い精神などが、世界の人々の賞賛を集めました。この日本人の美質は、無常観や諦念に発するものかもしれません。だって、絶対的な存在である自然を前にしては、おとなしくするしか仕方ないではありませんか。身を寄せ合って静かにしているしか仕方ないではありませんか。自然を征服・支配する対象としてとらえ突っ走ってきた西洋とは異なる民族性が、そこに大きくあるようです。

 そして、無常は、即ち、常でないということであり、万物は流転し同じ状態は続かない、不幸な状態にもいずれ光明が差すという希望を内包した情緒なのかもしれません。また、諦念とは諦め悟ることであり、何が身に降りかかろうとも受け入れなければならないという、意外とポジティブな心の働きというか、一種の強さなのかもしれません。そうした日本人らしさが、未曾有の東日本大震災からの復興に大きな力となっていくのだろうと思います。

 しかし、この美質は欠点と表裏一体です。日本人的諦観は、一方でずっと日本人を無自覚無責任で、社会的に未熟な国民にしてきたように思います。自然を肯定的におとなしく受け入れることで、疑ったり怒ったりといった「自覚的・自律的な個」を育むことを疎かにした、いわゆる「長い物に巻かれる」「お上任せ」の日本人にしてしまったということです。

 自己や社会の変革が必要なとき、これほど厄介なものはありません。今回の大震災は、規模の大きさや併発した原発問題もあって、今後、単に震災以前に戻す「復旧」ではなく、新しい価値観にパラダイムシフトする「復興」でなくてはならないと、多くの識者が語っています。

 経済至上主義からの転換、科学技術過信からの転換、快適便利過剰からの転換、欲望肥大化と我欲追求からの転換など、変えなくてはならないもの、変えたほうがよいものはいろいろあるでしょう。が、いずれにせよそれを実現するには個人が、一人の人間として、社会の一員として、自覚的・自律的に存立し、組織がそうした個人の集団でなくてはなりません。

 近代文明の行き詰まり感が漂い、世界不況にあえいでいた今日の日本において、この復興は、何よりもまず私たちが自覚的・自律的な個人へと変わり、もっと安心できて、より幸せが感じられる社会へと転換するきっかけなるのではないでしょうか。世の中に対しては「仕方ない」と言ってばかりではいられないのです。

3.原発をめぐるとてもシンプルなこと

 原発の問題については、正直言うと、私は今まであまり真剣に考えることはありませんでした。本当に原発なしで日本のエネルギー需要はまかなえるのか、厄介だとされている原発廃棄物の処理はどうなっているのか、そしてまた、原子力村ともいわれる原発利権の実態とはどういうものなのか、など考えても複雑で専門的すぎてよく分からないし、考えなくても私の生活に支障はないですしね。だから、自信を持って原発推進なり反原発なりを説く人の意見を聞けば、どちらへも「へぇ、そうなのか」と感心してしまうという情けない状態というか、お気楽な人間でした。

 しかし、3.11以降、毎日、原発問題について何らかの情報や知識を意識的に求めるようになり、アカデミズムの立場から批判的に原子力とかかわってきた小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)の存在などを知る中で、今さらながら大事なことに気づきました。とてもシンプルなことです。電気が止まったら困る、現代生活が成り立たず経済活動も停滞するので困るといった問題以前に、「原発は危険だから困る」ということです。

 だって、あの「想定外」という想定は、言うまでもなく危険な原発を安全に扱うための想定であり、危険であること自体が想定外だったわけではありません。しかも、どうも「本当に想定できなかったケース」や「ある程度想定できたが、データが不確かだったり、確率が低いと見られたりしたために除外されたケース」でもなく、「発生が予測されたが、その事態に対する対策に本気で取り組むと、設計が大掛りになり投資額が巨大になるので、そんなことは当面起こらないだろうと楽観論を掲げて、想定の上限を線引きしてしまったケース」だったようではありませんか(この3つのケース分類は、ノンフィクション作家の柳田邦男さんがこれまでのさまざまな災害事例をもとに分類したもの)。

 それに、そもそも海外では原発はリスクが大きいので国が運営していますが、日本だけ民間企業による経営です。今回の経緯からもわかるように、日本では国策と民営とが曖昧で、どこまで補償すべきかに政治が絡む(税金投与)のは本来民間事業になじまないことを物語っています。

 などなど、日本の政治、経済、社会のおかしなことや不合理・不条理が、この私にだっていろいろと見えてきます。ほんと「仕方ない」では片付けられないではありませんか。

4.映画『100,000年後の安全』の警告

 
さらに、放射性廃棄物の問題をちゃんと考えてみると、こんな恐ろしいことはありません。その重大さ、深刻さを、映画『100,000年後の安全』が見事に突き付けています。この映画は今秋公開予定でしたが、福島原発の事故を受け、4月から緊急公開へ。大阪は5月の末からの予定で、熊本でもいずれ公開されるでしょう。まだ見ていませんが、ネットでいろいろと知ることができます。
 ▼映画『100,000年後の安全』公式サイト
 http://www.uplink.co.jp/100000/

 原子力発電所から出される大量の高レベル放射性廃棄物は、安全な状態になるのに10万年はかかるそうですが、現在、世界のどこもが暫定的な集積所に蓄えているのが実情です。そうした中でフィンランドは、世界で初めてその永久地層処分場を地下に建設しました。「オンカロ」(フィンランド語で「隠れた場所」)と名づけられた施設で、巨大な要塞都市のようなシステムによって、10万年間、高レベル放射性廃棄物が隔離されるそうです。この映画は、その中にカメラが入るとともに、設計者などの声を集めてつくられたドキュメンタリー作品です。

 「廃棄物が一定量に達すると施設は封鎖され、二度と開けられることはない。しかし、誰がそれを保障できるだろうか。10万年後、そこに暮らす人々に、危険性を確実に警告できる方法はあるだろうか。彼らはそれを私たちの時代の遺跡や墓、宝物が隠されている場所だと思うかもしれない。そもそも、未来の彼らは私たちの言語や記号を理解するのだろうか」

 公式サイトにそんな戦慄すべき言葉があるように、原発は「人類の負の遺産」なのだとつくづく感じます。

 実は、私の弟の一人は、核融合エネルギーの研究に携わったあと核融合を離れ、15年前から「レーザー宇宙物理」という新しい研究分野を手がけている科学者です。彼はこう言っています。「僕自身の結論は、原子力エネルギーは中継ぎであり、求めるべきは自然エネルギーの活用、エネルギーの節約と効率の向上、エネルギーの分散化、そして持続性のある調和ある未来を子供や孫に残していきたい、ということ。エネルギーの大量消費は長い目で見て地球の自殺行為だ。地球が開放形とはいえエントロピーは確実に増大する」。

5.科学技術の挑戦、日本の挑戦

 
以前、私はこのコラムの【Vol.34島<その2>】おいて、科学技術に関連し次のように述べました。

 「火をおこし、道具をつくり、文字を使うという生き方を知った祖先に始まり、私たち人間は“夢”や“欲望”を抱き、それに挑む“探究心”によって未知を既知に、不可能を可能に変え、不便・不快を便利・快適にしてきました。人間の夢や欲望に終点はありません。探求する科学も、面白いことに『一つのことがわかると、わからないことが10個見つかる』(脳科学者・茂木健一郎さん)そうです。その不可解を解明せずにはいられないのも、人間ならではの欲望。人類の歴史とは、無限連鎖するそれらの諸々に突き動かされながらの歩みなのでしょうね」

 原発について、人類が考え出した英知の結晶の一つであり、その可能性を追求するのは当り前だ、許されることだ、といった考え方もあるようですが、それは追求する科学者なり技術者なり関係する立場の人の自己満足であり、傲慢だと思います。漫画家の山岸凉子さんは、チェルノブイリ原子力発電所事故を受けて『パエトーン』という作品を描き、原発の是非を世に問いました。

 ギリシャ神話に登場するパエトーンは、神になり代れると思い上がる若者。太陽神にしか制御できない“日輪の馬車”を操縦したいと願い出る彼に、太陽神は不承不承許しを出します。が、パエトーンはやはりうまく操ることができずに暴走させ、あわや地球は焼き尽きそうになり、彼は怒った神々の王ゼウスによって雷を打たれて死んでしまいます。原発を制御できると過信する現代人をパエトーンになぞらえ、発行当時の原発の状況をつぶさに紹介した25年前の作品ですが、今なお通用する問題提起になっています。

 山岸さんは、今回の福島原発事故に際し、多くの人が原発を知る参考になればとネット上でこの作品を無料公開しています。
 ▼漫画『パエトーン』電子書籍(無料)
  http://usio.feliseed.net/paetone/_SWF_Window.html

 実弟の言葉を引き合いに出して面映ゆいですが、自然エネルギーの活用や、エネルギーの節約と効率の向上、エネルギーの分散化など、地球と未来のために、あるいは探究心の充足を求めて、科学技術が挑戦すべきこと、できることはまだまだいっぱいあるではありませんか。

 日本は高齢化先進国とも言われるように、高齢化や少子化に限らず人類が直面するさまざまな課題を世界に先駆けて経験し、解決策を模索しています。原発問題を含む東日本大震災からの復興も、そうした一つと言ってよいでしょう。政治や経済、科学や文化の指導者たちの志と行動を、また、これからの社会を担う若者たちがこれまでの日本人の美質を持ちつつも個に目覚めた新しい日本人像をつくっていくことを、私は市民の一人として、もう若くないおばさんの一人として、心から願い、期待しています。

 そして、私自身も、自覚的・自律的に自分の残された人生を考えるとともに、社会の一員としてできることは何か、発言力も影響力もない無力な存在ですが、それでも考えながら、実行しながら、生きていきたいと思っています。

追記

 3.11以降、私はこれまでにも増してインターネット空間から多くを学び、考えさせられています。その中から2つのサイトをご紹介します。どちらのサイトも、ネット空間で出会い、メールでの交流をさせていただいているお二人が運営しています。

●伊藤洋先生のブログ「日々是好日」
http://blogs.yahoo.co.jp/kendaigakucho
 伊藤先生は、本コラム【Vol.21<豆腐余話>】でも登場。私が仕事で知らないことが発生したときなどに問い合わせをすれば、さっと回答して助けてくれるスーパーマンです。その後、山梨県立大学の学長になられ、この学長ブログを発信しています。3.11以降、教養人にして工学博士である先生らしい発信が続いています。5月2日のブログには映画『100,000年後の安全』についての機知に富んだ解説もあります。

●佐々木孝先生のブログ「モノディアロゴス」
http://monodialogos.fuji-teivo.com/
 スペイン思想の研究者で小説家、元大学教授でもある方。福島県南相馬市に住み、3.11後も「無用な避難は混乱を招く」として奥様の介護をしながら自宅にとどまり、発信を続けています。半端じゃない先生の反骨精神と諧謔精神の虜になり、毎日アクセスし、メール交換までさせてもらうことになりました。「自覚的・自律的な個」についてしっかり考えさせられています。



  最後に、私のサイトも紹介させていただきます。「くまもと文化の風」への投稿が諸事情により滞りがちですが、このサイト「高部の花辺」では花作品は毎月更新していますので、よろしければお立寄りくださいね。