Vol.7 <宮本武蔵>そして<花菖蒲>[2005.6.16]
近畿地方が入梅宣言した11日、そぼ降る雨の中、奈良の柳生の里へ行ってきました。柳生と聞いて、歴史・時代劇知識の乏しい私がすぐ思い浮かべるのは十兵衛くらいですが、柳生新陰流を創始した石舟斎をはじめ、息子の宗矩など柳生一族の本拠地がここなのです。そうだ、「子連れ狼」の適役・烈堂もお馴染みさんだ。なんと一族には、烈堂なる人物も実在したとか。もっとも物語のあの怖い烈堂とはまったく違うキャラクターの人だったそうですが。

若き宮本武蔵は石舟斎との立ち合いを望んでこの地を訪ねたそうで、結局、目的は果たせなかったものの荒ぶる武蔵から剣聖武蔵への転機になったと聞きます。そしてその後、西国へ向かった武蔵は、将軍家指南役として江戸で大成した宗矩とよく対比して語られるそうで、晩年、肥後藩主細川忠利公に客分として迎えられ5年ほど穏やかに過ごし、その生涯を熊本で閉じるわけですね。生き方は違うものの、武蔵の「五輪書」と宗矩の「兵法家伝」は近世武道書の二代巨峰だとか。“吉川武蔵”も「バカボンド」も読んでなくて、つい最近のNHK大河「武蔵」も見てなくて、残念ながらこれ以上は語れない私であります。

で、それはともかく、この地の鄙びた風情に田舎育ちの私は郷愁をくすぐられっぱなしでした。夏になれば草いきれが立ち込めそうな山道を進むと、澄み切った空気、漂う靄、時折聞こえる老鶯の声。そして、ちゃんと根づいたらしい田植えして間もない苗や、どくだみなどの野草はもちろん、水辺に横たわる蛇すらも懐かしくうれしい。もう戻ることのない自分の過去への感傷にふけったわけです。そしてまた、すべてがスピードアップし、“遅れを許さない”社会になった現代を思うと、諸国を漫遊したという武蔵がどんな旅をしたかはわからぬものの、交通機関の発達していなかった当時、ゆったり過ぎる時間や目に入る自然は、きっと彼の身体と精神に力を与えたのだろうと感じたのでした。

さて、この時期、柳生の見所は「花しょうぶ園」。花菖蒲は“肥後六花”のひとつ(本コラムVol.3<椿>参照)です。肥後武士が精魂注いで育てた花の末裔である“肥後系”もたくさん植えられていましたよ。こんな美しい花を、武士たちが一生懸命育てていたなんて想像するとなんだか微笑ましいですね。もっとも各藩の園芸奨励は、精神修養とともに藩の財政効果も考えた実利面もあったようですが。

ところで端午の節句には、もともと地味な植物で尚武・勝負に通じる菖蒲(サトイモ科)が付き物でしたが、いつの間にか美しい花が咲くまったく別物の花菖蒲(アヤメ科)がセットになった観あり。でも「武」という漢字は「二」と「戈」と「止」が合わさった字で、二つの鉾(ほこ)を止める、つまり、争いを止めることを意味したそうですから、穏やかさこそ武の象徴と考えれば、花菖蒲はふさわしいかも。硬質の葉や茎に艶やかな花をつけてすくっと伸びる姿はとても凛々しく、ちょっとビジュアル系ですが、余裕と色気を漂わす勇気ある男のようにも思えました 。
1万m2の大花園に80万本の大パノラマ(写真のような花床が右側の山地に向かって数段続いていました)。日本原産のアジサイや水生植物などもいっぱい。でも、少し時期が早かったのか、まだ葉っぱだけの花菖蒲が多かったです。写真下に組み合わせた白い花は、肥後系の“白露”。真っ白の華やかさって、スゴイですね。
旧柳生藩家老屋敷。このほか旧柳生藩陣屋敷跡、柳生家代々の菩提寺・芳徳禅寺、柳生宗厳が刀で真っ二つに割った一刀石など、ゆかりの名所旧跡があちこちに。昭和46年のNHK大河「春の坂道」で柳生ブームが起きましたが、原作者の山岡荘八はその時ここを買い取って住み、ここで構想を練ったそうです。