Vol.59 細川ガラシャ[2013.8.20]
 好調らしい今年のNHK大河ドラマ「八重の桜」。私は視聴してはいないのですが、少し前のTBS日曜劇場「JIN−仁−」で、可憐で芯の強いひたむきな女性・咲を透明感のある美しさで演じた綾瀬はるかが、今度は、後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた逞しい女性・新島八重を演じているということで、そりゃ素敵だろうな、と想像しています。

 京都大学大学院教授の稲垣恭子さんは、「八重の桜」の話題性の一つして、「武家娘」の生き方を挙げています。稲垣さんによると、武家娘は、自らの誇りと自覚によるセルフコントロールを身につける「たしなみ」を重視する教育環境の中で育つそうで、そんな誇りと自己抑制は、封建制度下では体制を支え維持する方向に働きましたが、明治の新時代においては、変化の激しい社会の中で自身を支え、乗り切っていくエネルギー源になったそうです。

 そして、「八重の桜」で「『明治の武家娘』が『ハンサムウーマン』として改めて魅力を放って見えるのは、指針なき現代社会における一つの理想的人間像を照らし出しているからであろう」と分析しています。

 戦後生まれの私は自由な時代に育ちましたが、「自らの誇りと自覚によるセルフコントロール」なんてことに魅惑も感じる世代でもあり、性格でもありまして、そこで、取り上げてみようと思ったのが、まさに武家の娘、武将の妻、細川ガラシャ(1563〜1600)であります。今年は彼女の生誕450年にあたることから、様々なイベントも開催されているようですよ。

 細川ガラシャ――戦国武将、明智光秀の娘にして、肥後藩細川家初代、細川忠興の妻であり、本名は玉(珠、玉子とも)。ガラシャはキリスト教の洗礼名で「恩寵」の意味です。忠興が肥後藩主になったのはガラシャの死後であり、ガラシャ自身は熊本で過ごしたことはありませんが、忠興の跡を継いだ息子の忠利によって熊本にも墓がつくられるなど、ガラシャゆかりの地は熊本にもいろいろあるようですね。

 父の謀反(本能寺の変)によって引き起こされた不幸や、関ケ原合戦前夜の忠興出陣中の壮絶な死など、その生涯が波乱に富み、悲劇的な要素も多いことから、ガラシャは多くの文学作品にモチーフになったり、さまざまな映画やドラマにも登場したりしています。それぞれの描かれ方をしていますし、エピソードもいろいろと語り継がれていますが、彼女の人物像として共通した認識は、絶世の美女であり、聡明で、意志の強い女性だった、ということでしょうか。

 最近の新聞で知ったことですが、ガラシャは「殉教死」したヒロインとして、死後後間もなくイエズエ会の宣教師によって西洋にも伝えられていたそうで(1603年ローマで刊行の「日本年報」に掲載)、それをもとに各国で伝記本も刊行されたとか。そして、1698年にはガラシャを主人公にしたオペラ「勇敢な婦人」がウイーンで初演され、人気を博したそうです。

 ご存じのように、彼女は自ら死を選んだ人間です。石田三成と徳川家康の対立で忠興は家康方につきましたが、三成は徳川軍の混乱を狙い、留守宅の妻を人質にしようと、まず忠興の屋敷を襲撃。ガラシャは人質なることを潔しとせず、子どもや侍女を逃がし、死を決意したのです。キリスト教は自殺を禁じているので、家臣に胸を鑓で突かせて死去。屋敷には火が放たれ、ガラシャ38年の生涯も炎の中で消えました。

 江戸幕府のキリスタン弾圧が強まるのは1610年頃からですから、ガラシャの死を「殉教死」というのもどうかなと思うのですが、最後までキリスタンとして神の教えを守って死んだのは確かですし、オペラのタイトルのように、勇敢に生きて死んでいったということですね。

 ところで、フランス革命で処刑されたマリー・アントワネット(1755〜1793)は、実家のハプスブルグ家がイエズエ会の支援者だったことから、娘時代にこのオペラを観て、ガラシャの生き様を知っていたのでは、という指摘もなされています。東洋と西洋の悲劇の美女に、そんな接点があったかもしれないと思うと、なにやらロマンがありますね。

 さて、大阪にはガラシャゆかりの地がいろいろあります。例えば、大阪城近くの「越中井」。忠興邸の中にあったもので、ガラシャがその水を使っていただろうということです。今、水は湧いていませんが、以前、私はある街歩きガイドの作成でこの井戸を取材した際、周辺の古老たちから「昔は夏になると、ここでスイカをよく冷やした」という話を聞きました。スイカが日本に伝わったのは室町時代以降だそうなので、ひょっとしたらガラシャも侍女がこの井戸で冷やしたスイカを食べたことがあるかもしれませんね。

 また、「越中井」の近く、やはりかつての邸宅の一部に、白壁の「カトリック玉造教会」があり、入口にはガラシャ像が佇んでいます(キリシタン大名、高山右近の像と左右に並んで)。ここにあった屋敷の中で、ガラシャは一心に信仰を深めていきました。ガラシャと忠興は、その時代の常である政略結婚ではありますが、幸いなことに仲睦まじかったそうです。しかし、結婚4年目の本能寺の変で、運命が暗転します。細川家は光秀の援助の願いを断り、忠興はガラシャを丹後半島の奥深い味土野(みとの)の地に約2年間、幽閉します。

 その後の生活の中で、ガラシャは洗礼を受けるのですが、まさに心のよりどころを見出したのでしょう。過酷な運命を生き、暗澹たる日々を過ごす人間として、また、夫婦仲が良かったとはいえお互いに激しい気性から夫とは葛藤もあり、微妙な関係を紡いでいた妻として、信仰が救いになったということです。

 先ほどの「カトリック玉造教会」を取材した折、ある修道女から、ガラシャが死んだのは信仰とは別に、夫のため、家のためであり、それがその時代の女性として当然だった、という意味のことを聞きました。

 ある資料によると、忠興は屋敷を離れるときは「万一妻に危険が及んだら、妻を殺して切腹せよ」と、いつも家臣に言い置いたとか。妻についてはいわゆる「お家のため」というより、美しい妻をだれにも渡したくないという思いからのようで、それも愛というより独占欲からのようです。が、ガラシャはガラシャで、そうした忠興のことを分かった上で、武将の妻として、キリスタンとしてふさわしく死ぬにはどうしたらよいか、神父に手紙で相談していたそうです。

 ガラシャの死によって、三成は他家から妻を人質に取れなくなり、人心まで失って大敗。忠興は家康の信用を勝ち得たそうですので、ガラシャはキリシタンとしても武将の妻としても完璧な死を導くことができたということですね。そんな気丈で怜悧で一途なガラシャの生き様は、炎の中で散る前にしたためたという辞世の句に結晶しています。

 散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ

 あまりにも見事な、武家娘らしい潔さですね。ガラシャと忠興の微妙な夫婦仲などについては、機会があればまた書こうと思いますが、今回は武家娘としてのガラシャとその死について、断片的にしたためてみました。




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