Vol.52 ことば[2010.09.28]
 熊本の人は「イワシタサンガイワシタ」とおっしゃることもあるでしょう。そう、岩下さんという人が何か言ったときに。あるいは、「ナカナカナカバイ」と口にされることもあるでしょう。そう、何かが「なかなか無い」というときに。

 大阪にはこの手の言葉で、もっと強烈なものがあります。

 A: 「あれ、ちゃうちゃうちゃう?」
 B: 「えっ、ちゃうちゃうちゃうんちゃう?」
 A: 「え〜、ちゃうちゃうちゃうん!」
 B: 「うん、ちゃうちゃう。ちゃうちゃうちゃう!」
 A: 「ほんまに? ちゃうちゃうちゃうん?」
 B: 「そやから、ちゃうちゃうちゃうゆうてるやん!」

 これは、“大阪弁ネタ”では結構有名なものでして、ちゃうちゃうというかわいい犬がいますが、それに似た犬を見かけたときの大阪人AとBの会話です。標準語で言ってみましょう。

 A: 「あれ、ちゃうちゃうと違う?(ちゃうちゃうじゃない?)」
 B: 「えっ、ちゃうちゃうとは違うんじゃない?(ちゃうちゅうじゃないんじゃない?)」
 A: 「え〜、ちゃうちゃうと違うの!(ちゃうちゃうじゃないの!)」
 B: 「うん、違う違う。ちゃうちゃうとは違う!(ちゃうちゃうじゃないって!)」
 A: 「ほんとに? ちゃうちゃうと違うのぉ?(ちゃうちゃうじゃないのぉ?)」
 B: 「だから、ちゃうちゃうとは違うと言ってるでしょ!(ちゃうちゃうじゃないと言ってるでしょ!)」


 「違う」のほうの「ちゃう」には、それぞれに微妙なイントネーションの違いがあるのですが、文字だけだと伝わらないのがまことに残念です。

 さて、とぼけたイントロでしたが、つかみはOKでしょうか(笑)。今回はことば――言葉についてです。

 言葉を駆使するのは人間の人間たる所以。科学者とイラストレーターのコラボによる本で、子どもから大人まで楽しく科学が学べる『言葉はなぜ生まれたのか』(著:岡ノ谷一夫、絵:石森愛彦)によると、人間の言葉は次の「ことばの4条件」を満たしており、そこが動物の鳴き声との違いだそうです。

1.発声学習ができる(すぐにまねできる) 
2.音(単語)と意味が対応している
3.文法がある 
4.社会関係のなかで使い分けられる

 この本では、4つのどれかを満たしている動物を例示し、4つそれぞれにいろいろと検証しているのですが、その詳細は本をひもといていただくとして、この4つについてもう少し私流に説明してみましょう。

 1.発声学習ができる(すぐにまねできる):発生学習は、自由に息を止める能力がないとできないそうです。そう、イヌもネコも、サルもウマもシカも、自分で息を止めることはできません。が、人間、そして、オウムや九官鳥、イルカやクジラは呼吸をコントロールできるのです。

 2.音(単語)と意味が対応している:求愛の鳴き声や威嚇の鳴き声など動物にもいくつかあるのでしょうが、やはり動物は限られた数しか駆使できません。しかもオオカミ少年のように事実を伴わない、いわゆる嘘をつけるのは人間だけです。

 3.文法がある:人間も、鳴き声に一定の規則のあるその他の生き物も、生まれつき言葉や鳴き声が脳に刷りこまれているわけではなく、生後、習得します。そのとき、一定の規則を見つけ、音の切れ目(単語とか)を認識する能力があるから習得できるわけです。換言すれば、鳴き声や言葉には規則=文法があるということですね。

 4.社会関係のなかで使い分けられる:日本語の敬語のような複雑なことを言っているわけではなく、まあ、どの言語にも赤ちゃん語のようなものがあったり、フォーマルな表現と砕けた表現があったりといったようなことを意味しています。人間以外のほとんどの動物は、相手によって鳴き声を使い分けることはないそうです。

 で、途中を飛ばし、いきなりこの本が提示する結論に行くと、次のように言っています。なお、下記のミューラーテナガザルとは、人間に近い動物であるサルの仲間で、大きな声で歌うように鳴き、「ことばの4条件」の一部(2.と3.――ただし、文法はゆるやかな規則程度)を持っているそうです。

 「発声練習ができた人間の祖先は、ミューラーテナガザルのように歌を歌っていたのではないか? 2匹のサルがいろいろな状況で歌っているうち、歌の重なり合う部分が切り分けられた。重なりあった歌の部分が切り出され、意味をもち、単語が生まれたのではないか?」

 確かに、太古の人間というか、猿人というか、我々の先祖が動物同様の鳴き声を上げて棲息していただろうというのは想像にかたくないですね。また、まったく知らない言語をしゃべる人間同士が、あるものの名前を指さして言うことで、その名前だとわかることがありますが、ここでの話は言葉という概念がない時代ですので、偶然、重なった発生音をものの名前とか状況とか感情を意味する言葉にした、ということのようです。

 例えば、人類史上最初に生まれた言葉は、赤ちゃんの最初の言葉のように食べる物を意味する「まんま」とか? いえ、古代は生命の危険も多かったでしょうから「危ない!!」とか? いや、種の保存のための「愛してる」とか? などなどそういう意味の原始の言葉が生まれていった。そして、ほんとにほんと〜に気の遠くなるような年月をかけて言語が成立したということなのでしょうね。

 ところで、言葉の存在、言葉の力、言葉の素晴らしさを、まさに啓示のごとく瞬間的に鮮烈に実感した人として、ヘレン・ケラーがいます。映画や演劇の「奇跡の人」のイメージが強く、特に井戸端で「ウォー、ウォー、ウォーワー」と、彼女が認識した最初の言葉「water(ウオーター)」を叫ぶシーンが、強烈に記憶に残っている人も多いと思います。

 ちなみに、サリバン先生の手記『ヘレン・ケラーはどう教育されたか』によると、確かに、ヘレン・ケラーは井戸端で言葉の意味を悟ったそうですが、声を上げてはいないそうです。戯曲での創作だったそうです(しかし、効果的な創作でしたね)。私は同書は読んでいないのですが、ネットでその一節を見つけたので、紹介します。

 「……井戸小屋に行って、私が水をくみ上げている間、ヘレンには水の出口の下にコップをもたせておきました。冷たい水がほとばしって、湯のみを満したとき、ヘレンの自由な方の手に『w-a-t-e-r』と綴りました。その単語が、たまたま彼女の手に勢いよくかかる冷たい水の感覚にとてもぴったりしたことが、彼女をびっくりさせたようでした。彼女はコップを落とし、くぎづけされた人のように立ちすくみました。
 ある新しい明るい表情が顔に浮かびました。彼女は何度も『water』と綴りました。それから、地面にしゃがみこみその名前をたずね、ポンプやぶどう棚を指さし、そして突然ふり返って私の名前をたずねたのです。私は『Teacher』と綴りました。
 (中略)
 家にもどる道すがら彼女はひどく興奮していて、手にふれる物の名前をみな覚えてしまい、数時間で今までの語彙に三十もの新しい単語をつけ加えることになりました。……」

 ヘレン・ケラーは2歳足らずで視力も聴力も失って言語のない世界に生きていたとはいえ、人類の祖先たちとは違ってれっきとした人類ですから、脳の中に言語の概念を受け入れるなんらかの生得的な土壌があったのかもしれませんが、やはり、言葉の存在に気づいたとき(もちろん、言葉にして気づいたわけではなく、言葉以前の感情的なもので気づいたわけでしょうが)、本当に雷に打たれたようなショックが全身に走ったのでしょうね。

 それほどの衝撃はないにしても、私たちは本を読んだり、人の話を聞いたりすることで、情報・知識として新しい事物を知るだけでなく、感情や思考や生き方を豊かにする概念・智恵を知り、ヘレ・ケラーのように、「新しい明るい表情」が顔に浮かぶことがあります。うん、やっぱり、言葉ってすごい。言葉あっての人類、言葉あっての人生ですね。