Vol.45 第九[2009.1.27]
 そう、ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調作品125、通称「第九」。日本では年末になると、第4楽章「歓喜の歌」がとりわけ話題になる、あれです。新年が始まったばかりなのに遅すぎるのか早すぎるのか、季節はずれお許しください。実は、私の熊本と大阪の友人が、昨年末、それぞれに市民参加の第九コンサートで「歓喜の歌」を、まさに歓喜の中で高らかに歌ったのです。

 ちなみに、熊本の学生時代の友人=熊友(クマトモ)は、昨年12月、たまたま彼女がこの「くまもと文化の風」を見てくれたことにより、30数年ぶりに再びご縁がつながった人。大阪の友人=阪友(ハンユウ)は、数年前、私の愛してやまない「お花」がご縁で知り会えた人です。

 それにしても、なぜ、年末に第九なのか。ウィキペディアによると、1930年代にポーランドの指揮者が新交響楽団(現NHK交響楽団)の音楽総監督に就任した際に、ドイツの習慣を紹介し、実践したのが始まり。また、戦後間もない1940年代後半は、収入の少ないオーケストラ楽団員が恙無く年越しできるようにという切実な現実的背景もあったよう。しかも、当時、クラシックで必ずお客が入る曲目が第九だったそうなのです。市民参加型が全国に広がっていった経緯についてはわかりませんが、熊本も大阪も四半世紀以上の歴史あるイベントとして根づいているようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3)

 熊友が参加した、昨年で26回目の「県民第九の会」については、この「くまもと文化の風」の「県劇人」Vol.8とVol.20をご参照ください。
http://www.kumamoto-bunkanokaze.com/kengekijin/k_08.html
http://www.kumamoto-bunkanokaze.com/kengekijin/k_20.html
 阪友参加の、同じく昨年で26回目にして大規模な市民参加型で有名な「サントリー1万人の第九」は、主催の毎日放送、協賛のサントリーのページをご覧ください。
http://www.mbs.jp/daiku/
http://www.suntory.co.jp/culture-sports/daiku/

 熊友は、参加の動機を「ちょっと主人のことを思ってね」と。なんでも若いころ合唱の経験がありつつ沈思黙考しがちな学究界のご主人を、あの感動の舞台に引っ張り出そうとしたのがきっかけで、この数年、夫唱婦随(ん? この場合は「婦唱夫随」か)で参加。一方、阪友は、かつて音楽の道を志していたこともあり、同コンサート指揮者・佐渡裕さんの大ファン。憧れの佐渡さんと同じ舞台に立ち、そのタクトで歌うという「夢みたいなことを実現したい」と10年ほど前に思い立ったのがきっかけです(大阪は抽選があるので必ずしも連続参加ではないとのこと)。

 そんなきっかけ、つまり、彼女らを一歩前に出させた「思い」。いいですね。音楽仲間ということで、このサイトのピアノおじさんことan弾手さん。彼も「ピアノをカッコ良く弾きたい」という思い、思い入れが原動力だったよう。ご著書『40歳からのピアノ入門』には、「小さな一歩を踏み出すエネルギーを支えていたもの、それは自分の内なる『思い』だったような気がします」という一節がありますもの。

 さて、彼女らの昨年の第九ですが、熊友は突然の入院手術に見舞われたにもかかわらず、退院早々練習に駆けつけて周囲を驚かせ、また、平素は「教える」立場のご主人は、合唱指導を受けることで「教えられる」ことの面白さを見出したらしいとか。「10年は続けるぞ!!」と夫婦で魅せられているようです。

 阪友はというと、昨年は、お母さんが発病し、看護と練習の開始が重なった中での参加。またこの数年は、参加しはじめたころは小学生で、今、高校生に成長している娘さんも一緒に参加。その娘さんは、母親の家での練習や晴れ舞台を見ているうちに感化され、いつの間にかあの歌も覚えてしまっていたとか(あ、門前の小僧ならぬ「母前の娘」やん! )。「合唱を始めるとき一斉に椅子を蹴って立ち上がるんだけど、鳥肌が立つよ」と、アドレナリンが大量噴出する一瞬の興奮と高揚を語っています。

 『声に出して読みたい日本語』などのベストセラーで有名な斎藤孝さんは、ある書で「心の力につながる、朗々と声を出す息の文化の再生を」と主張していましたが、練習や本番で「歓喜の歌」を高らかに歌うこと、そして、本番の達成感へと向かうハリのある日々、それらのすべてが、熊友にとっても阪友にとっても、心の力の一部になっているのでしょうね。家族のドラマも織り交ざったそれぞれの「第九語り」を聞きながら、私は、そうした心の力によって、暮らしを営んでいく・人生を歩いていくという当たり前のことがきちんとこなされていくのだと感じていました。