Vol.19 <適塾(2)>[2006.5.1]
緒方洪庵が開いた適塾。熊本の奥山静叔が、中津(私の生まれ故郷の大分県宇佐市に隣接する同県中津市)の福沢諭吉が、手塚治虫のひいおじいちゃんである大阪の良庵が、向学心に燃える若き日を過ごした学びの殿堂。ここではどんな教育が行われていたのでしょう。適塾の資料や、米田該典先生(大阪大学適塾記念会・評議員)のお話をもとにご紹介します。

集まったのは、一通り医者として修練を積んだ若者たち。ゼミスタイルが基本で、グループで蘭書の会読会や様々なテーマで討論会の毎日。洪庵は、自由闊達、自主独立を尊重し、学ぶ分野も制限しませんでした。討論の勝敗は塾生たち自らが判定。一つしかなかった辞書(長崎出島のオランダ商館長ヅーフが仏蘭辞書から翻訳した蘭日辞書・全7冊)はいつも争奪合戦。辞書部屋は夜通し灯が消えなかったとか。オランダを通じて入っている最新情報や知識は、血湧き肉踊る面白さだったのでしょうね。

和歌を詠むなど優れた文人でもあったという洪庵。蘭学よりも英学の時代になると塾生に助言するなど先見の明もあり、自分の権威にも頓着しない鷹揚さです。どうもこの学び舎は、新しい知に立ち向かえる技術と態度、つまり“学ぶ力”を鍛える場だったようなのです。諭吉は退塾後、蘭語が通用しないとわかるや英語を独習していますが、それも適塾教育の成果かもしれませんね。世界を細切れに見る専門バカではなく、総合的に見通せる教養人だったともいえる洪庵。同じく教養人に育った弟子たちが、文明開化の推進力の一翼を担ったというわけです。

医者としての洪庵にも感動します。幕末ともなると海外から伝染病が入ってきたのですが、コレラが流行したときは蘭書の関連図書を片っ端から翻訳して知識の普及に努め、蔓延を食い止めました。天然痘のときはジェンナーが開発した種痘を行うため「除痘館」を設立し、西日本を中心に全国に支所を広げ予防に努めました。研究家よりも臨床家。病人があれば放っておけない人だったようで、塾生に教えたのは“医の心”だったのでしょう。「除痘館」の展開では、故郷で地域医療に取り組んでいた適塾OBのネットワークが大きな力になったようで、タテに繋がりヨコに広がる教育本来の姿を見る思いです。

ところで、塾生は大部屋を中心にほぼ“1人タタミ1畳”が割り当てられて起居するという、現代では想像もできない環境でした。また、武士・医者とはいえ、フォーマルな場に出るときは刀の貸し借りなんてこともしょっちゅう。つましく貧乏な暮らしが当たり前でした。しかし、礼儀も節度も、向学心も克己心も、夢も希望も、惻隠の情もあった。そんな彼らが若者らしく羽目をはずしてつけた刀傷が、その大部屋中央の柱に残っています。

一方、諭吉の故郷の中津市の料亭・筑紫亭には、第二次大戦で出撃前夜に特攻隊員の若者が錯乱状態になってつけた刀傷が残っています(城山三郎著『指揮官たちの特攻』で紹介)。適塾の微笑ましい刀傷と、筑紫亭の痛ましい刀傷。前者は国家と個人の「品格」がちゃんとしていた時代のこと。そして、後者の傷がつけられ敗戦を迎えた後、日本は国家も個人も「品格」を失っていく道を突っ走っていったといわれています。
●生け花で使った桜が、すっかり葉桜になってしまいました。写真は、他の葉っぱもあれこれ寄せ集め、葉っぱでつくった一品です。葉は次代を養うために、しっかり光合成し、色づき、散ります(あ、この桜は生け花に使わせてもらったので次代は無理ですね。ごめんなさい)。学ぶ力や医の心を受け継ぎ、広げていった洪庵と塾生たちを讃えた作品とさせていただきました。