4月は学びの始まり。故郷を出て新しい学びを始めた人、逆に故郷に戻ったり、さらに新天地に出かけたりして、学んだものを活かすために実社会での学びを始めた人もいることでしょう。新しい人生の出発は、いかがですか? 世界が広がってワクワクウキウキ? それとも、慣れぬ世界に戸惑いと不安ばかり? 私も、30年以上も前の熊本での学生生活の始まり、大阪での社会人としての始まりを思い出します。
さて、江戸時代末期、そんな4月という一律の区切りはなかったでしょうが、大坂(当時の表記)に、全国各地から若者が集まる学びの場がありました。そして、そこを巣立った若者は、日本のために、故郷のために、学んだことを存分に活かしました。当代きっての蘭方医にして蘭学者で、教育者でもあった緒方洪庵が開いた適塾です。大坂での開塾はほぼ25年間。1人が2、3年ほど入塾し、通算約1,000名が学んだそうで、その適塾OBとなるとそうそうたる顔ぶれです。
文明開化をリードした福沢諭吉、近代軍隊の礎をつくった大村益次郎、日本の衛生行政を確立した長與専斎など、幕末から明治にかけての歴史を語る上で欠かせない人物がいっぱい。安政の大獄で散った橋本佐内も、五稜郭の戦いに参戦した大鳥圭介や高松凌雲もそう。その後、圭介は明治の外交で活躍し、凌雲は赤十字博愛精神を実践し、その精神は同じOBで日本赤十字社の初代総裁となった佐野常民に受け継がれました。また、手塚治虫の曽祖父・手塚良庵(後に良仙)もその一人。手塚は、良庵を主人公とする作品『陽だまりの樹』で自分のルーツを探り、適塾のことも描いています。もちろん、熊本、肥後藩にもOBがいました。中でも熊本医学史に名をとどめる奥山静叔がいます。市内の往生院には彼のお墓があり、奥山家も続いておられるとか。
さて、静叔さん。簡単にプロフィールを紹介しましょう。1817年(文化14)、山鹿郡相良村で代々医家だった奥山家に生まれ、地元で医を学び、適塾へはその初期のころに5年間ほど入塾。とても勤勉で、長く塾頭として後輩を率いたようです。この間、徳川御三家・紀州侯から禄300石で召し抱えたいとの誘いがありましたが、我は肥後藩の武士ということで、二君に仕えるを潔しとせず断ったそう。で、1846年(弘化3)故郷の山鹿に帰り、1849年(嘉永2)からは熊本城下の内坪井で医業を開き、諸生を教え、蘭書を翻訳しました。肥後藩の蘭学指南引廻しとか侍医とか次々と重職を任ぜられ、江戸出張だのお殿様のお供だのと、忙しかったようです。
明治になってからは、熊本医学校(熊本大学医学部の前身)で教壇に立っています。太っていたので夏は苦手だったようですが、汗だくになりながらも意に介せず、畳敷きの教場で、早朝から夕暮れまで懇切丁寧に天性の美声で講義したとか。そういうアツい先生が輝いていた時代なのですね。医学校では、熊本出身の世界的に有名な医学者で細菌学者、北里柴三郎も教えているようです。そして1894年(明治27)満76歳で、多くの門人を育て、地域医療に尽くした生涯を終えました。
私が静叔を知ったのは、昨年秋、適塾を取材する機会があり、入手した資料からでした。大阪大学・適塾記念会(適塾は大阪大学医学部の源流であることから阪大が所管)の評議員である米田該典先生にお話を伺ったのですが、今回改めて静叔の資料をちょうだいしたわけです。
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