Vol.17 <隠れ念仏>[2006.3.30]

あのイチローに「ヤバイっすよ」と言わしめた王JAPANの面々。個の技とチームのパワーが織りなす絶妙のプレーに、興奮と感動をもらったWBCでした。世界の人々を沸かせ、魅せた野球チームと、誰にも知らせず、知られず、ひっそりと自分たちの信仰を守り通した隠れ念仏の信者たち。同列に語るには無理がありますが、心を一つに結束し、激しくあるいは静かに燃える集団の凄みのようなものを覚えます。

隠れ念仏とは、真宗禁制の時代に、隠れながらひたすら信仰した人々、あるいはその信仰のこと。先月うんすんカルタでふれた人吉や球磨一帯は、隠れ念仏の里でもあるのですね。

私が隠れ念仏について知ったのは、つい最近のこと。キリシタンン弾圧の時代に、真宗弾圧も行われていた。そして、過酷な弾圧下でも信仰を捨てず、真宗の本山である京都・本願寺とのつながりを大切に保ちながら信仰を貫いた人々がいた。さらに東北には、“隠し念仏”といって本願寺との縁をも絶ち、密かに信仰を守った人々もいた。半世紀以上も生きてきた私が、初めて知った日本の歴史の断片。深く暗い底知れぬ井戸を覗き見たかのように、身のすくむ思いでした。

さて、隠れ念仏が心をつなげていた先、京都の本願寺。随分と波瀾万丈の歴史を重ねています。1272年、浄土真宗開祖親鸞聖人の娘が聖人の遺骨を安置して創建したことに始まり、内紛で破壊され、再建しては各地を転々。1591年、秀吉から寺地を寄進されて現在地に移転し、さらに1602年、家康の時代に二つに分かれ、現在地の西本願寺(本願寺派)とは少し離れて東本願寺(大谷派)ができて…。真宗と浄土真宗は同じと理解してよいようだし、西と東に分かれたのは本願寺の勢力を恐れて家康が分裂させたみたいだし、分かれた後は今日も両者は仲良しではないみたいだし…。これはこれで日本の歴史と信仰についていろいろと考えさせられます。

で、その西本願寺に、王JAPAN・WBC優勝の翌々日、春季彼岸会期間中の3月23日にお参りいたしました。御影堂(ごえいどう)という大伽藍が、2011年(平成23)の親鸞聖人750回大遠忌(年忌法要)に向け10年間にわたる大修復工事中のようで、全貌を目にできなかったのは残念でしたが、本当に立派なお寺です。

ところで、隠れ念仏に限らず、権力に虐げられ、貧しく苦しい生活を余儀なくされた人々が信仰に救いを見出すというのは、世界の歴史でも、現代の世でもよくあることです。本当の救いになったのならそれはそれで素晴らしい。でも、その信仰で弾圧を受けたり、さらなる経済的負担を強いられたり、あるいは、他者をないがしろにして殺人をも正当化したりとなれば、信仰って一体何なのよ! と思わざるを得ません。

隠れ念仏の人々は、京都の本山からの寄付の求めに応じて志納金を捻出し、命がけで送っていたそうです。それが“そこまでせざるをえないさらなる辛さ”になっていたのか、“そこまでできる幸せ”を生んでいたのか、私にはよくわかりません。いずれにせよ、隠れ念仏。ちょっと立ち止まって思い巡らせてみたいことでした。

●西本願寺の境内にはイチョウの巨木が2本あるようで、これは小さいほう。大きなほうは工事中の御影堂の前にあり、仮設屋根に覆われていましたが、とんでもなく大きな幹と、入り込んでこれまたとんでもなく広がる無数の太い枝が垣間見えました。本寺にはイチョウが比較的多く植栽され、古くから火災の類焼を防ぐ防火樹の役割を果たしたとのこと。御影堂の前の大イチョウは、かつて京都大火の折、水を噴出してお堂を守ったという伝説が伝わっているそうです。