Vol.15 <忠臣蔵>[2006.1.16]

忠臣蔵といえば、年末の日本のお約束ごと。映画やテレビで新旧の作品が見られたり、討ち入りの12月14日にはゆかりの地でイベントが行われたりします。でも、当時の12月14日は旧暦。現代の新暦では1カ月ほど遅れ、今年は1月13日がその日に当たります。12月中旬に東京であんなに大雪が? とずっと疑問に思っていらっしゃった方、これで謎は解けた! でしょうか。ちなみに下記サイト「こよみのページ」で「西暦2005年12月14日」を選択し「計算する」をクリックしてみてください。新暦では「西暦2006年1月13日」に相当することがわかります。
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/kyuureki.htm

で、忠臣蔵。関係する市や町で、毎年、忠臣蔵サミットがもたれているとか。ゆかりの地(下記サイト)の多さにびっくりし、日本人の忠臣蔵に寄せる思いの深さに今さらながら驚かされます。
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/chuushingura/ako3.htm

熊本も、ゆかりは深うございます。本懐を遂げた赤穂浪士四十七人は、細川・松平・毛利・水野の四家の江戸屋敷にお預けとなり、肥後細川家には大石内蔵助以下17人が預けられたのです。そして、切腹までのおよそ50日間、細川藩は赤穂浪士を厚くもてなしました。内蔵助は恩返しに、当時財政が困窮していた細川藩に、薩摩で習った櫨(ハゼ)の栽培と精ろう法を教えたそうで、櫨ろうそくは細川藩の専売事業となって財政活性化へ。上益城郡嘉島町の国道445号沿いのハゼ並木は、その歴史と絆を留めるべく一部を移植したものだそうです。

また、熊本県山鹿市(日輪寺)には、細川家にお預けとなった大石内蔵助以下17人の遺髪塔、そして、細川家の家臣・堀内伝右衛門の墓があります。伝右衛門は内蔵助ら17人のために大いに尽くし、また話を聞き取って『堀内伝右衛門覚書』を著述。世話好きで感激屋だったらしい武士・伝右衛門。日本の歴史ドラマを豊かにしてくれた功労者の一人ということのよう。

赤穂といえば兵庫県。内蔵助が“昼行灯”と呼ばれながら遠大なる計画を胸に遊び興じていたのが、京の茶屋。ということで、当然、関西にはゆかりの地がいっぱいです。大阪市内では、たとえば義士の墓所として知られる吉祥寺。浅野家の大阪菩提寺で、参勤交代の折には必ずここに立寄ったそう。四十七士のうち、足軽の故に切腹を免かれた寺坂吉右衛門が、46人の遺髪、遺爪、鎖かたびらなどに銀10両を添えて義士の冥福を祈るよう依頼したそうです。(内蔵助ら17人の遺髪は、日輪寺と吉祥寺に分けたのかな?)

吉祥寺では、毎年12月14日に「赤穂義士奉賛祭典」を開催。義士に扮した子供義士の時代行列(下記サイト)なども繰り出されます。昨年、師走のあわただしい中、私もちょっと立ち寄ってみました。剣を持てばやはり男の子は武者ぶる思いなのか、どの子も嬉々として益荒男(ますらお)然。そんな可愛い豆義士を見ていたら、今の子供は云々とよく言いますが、チャンバラに興じ、“遊びを逸脱しない喧嘩”を知って楽しんでいた頃の子供と変わらないように思えました。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200512/news1215.html

●吉祥寺のこの外壁を見れば、「忠臣蔵ゆかり?」と気づく方もいるのでは。白と黒のダンダラ模様は、お馴染みの義士の討ち入り装束。町火消し集団の装束の意匠だったらしく、その姿で「変装」していれば徒党を組んで夜中に走っていても不審がられないだろうと思ったからとか。でも、それは義士切腹の後に大ヒットした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の舞台衣装であり、実際はバラバラの衣装だったとも。ちなみに、幕末の新撰組の装束は、黒ではなく水色というか浅葱色(あさぎいろ)。これは新撰組隊士が、赤穂義士を敬愛・崇拝してのこと。さらに、写真左側、吉祥時の左端の外壁は、ダンダラ模様ではなくシンプルな白黒。どうも、これは、あの懐かしの長谷川一夫主演の大映映画「忠臣蔵」、NHK大河ドラマ「赤穂浪士」での装束のよう。ということは、イメージ色々の忠臣蔵ファンに対するお寺の対応? いつか聞いておきましょう。