Vol.38  GO AHEAD -進む・歩む- [2005.11.24]

 とどのつまり、どんな場合も結局『自分』にすぎない。
でも、そんな『自分』に固執してて、一体どうなのよ?
な〜んて土曜日の秋の夜長、ひとりブチブチ思っていたら、ラジオからこんな声が聞こえてきた。
 
「『グルーヴ』というのは、これは一人でするもんじゃないんですね」

彼は続けた。
「『グルーヴ』ってのは、いっしょに演奏する他のミュージシャンの音を聞いて、『こんな感じ?』と返す。そしてまた相手もいろんなリズムの中にそれを受けて『じゃ、こう?』
と、こんな風にやって行く中で生まれるもの」

きっとそれは人間の感覚の会話みたいなものだろうか。
彼は、こう付け加えていた。
「もしもネガティヴな意味で『あいつにはグルーヴがない』なんて言う時には、自分にも問題がある。僕もそれを指摘されたことがあるんです」

「う〜ん、いろんなことにつながるなあ」
このトークと出会えて良かったと思った。

******

 かねてから私は、こんなことも思っている。
絵と違ってダンスや音楽というのは、一瞬で消えてしまう、その『瞬間』に渾身の力をこめる。けれど絵は、その『軌跡の集積』で、『物』があとに残る。

 なぜか、仕事でもずっと、本当になぜだか私は、常に『物として残るもの』に携わってきている。何ともちょっと微妙な気分。
『残らないもの』に携わり、その才能をおしげもなく発揮している人たちはとってもカッコ良く見える。私は常々そう思っているわけ。

 ミュージシャンやダンサーは『物』を全く残さない。しかし、それが素晴らしいものならば、人の『感覚』の中に何かが残る。ただ純粋に、彼等自身の営みの中では『物』は何も残されない。
 料理人は料理を作り、それは食べられて人を幸せな気分にするだろう。けれど『もの』そのものはスッキリとなくなる。

 商業、工業デザイナーは物を造り、それは磨耗するか捨てられるまでは『物』として『何か』を発し続ける。優れた映画や絵画なども、そういうことだ。
 でも、残る・残らないの問題より、そこにある人の気持にうったえるその『何か』。

 デザインする時の『経過』。『もの』を造る時の『経過』。
残る『物』を造るとき、そこに『形としては残らない力』がある。『もの』を作る時、ここが大事なんだ。『残る物』があるのならなおさらのこと。
 思えば日々の営みだってそう。何も残らないけれど、その瞬間の軌跡があとに繋がってく。

 ア〜、なんかイマイチ理屈っぽくなっちゃうな〜。考えるとそうなっちゃうヨな〜。しかし、やっぱり、人間はエネルギーをポジティヴに使うことができる時、一番幸せなんじゃないだろうか。振り返るのも時には大切だけど、ただ、シンプルに進んでみる。その進む方向がたとえ前方でなくとも、歩んでみるだけでいいじゃないか。そんなことを大事にしたい最近のマリコがいる。 

-END-
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