いつもの地下鉄。イチローの大リーグ記録もあと2本にせまったある日のこと。
私は毎日通勤で霞ヶ関で日比谷線と丸の内線を乗り換える。そして、そこから数駅の赤坂見附までは、行きも帰りも混んでいる。ここで大勢の人が乗り換えのために降りていき、又同じくらい大勢の人が乗り込んでくる。
ラッキーな場合、たまにそこで目の前の席が空き座れることもあるが、ほどんど30分くらい立ちっぱなしで家路に着く。しかし、その日はその希少なラッキーな日で、私の目の前の席がひとつだけ空いた。私は疲れた身体をその穴の中にすっぽりとおさめるようにして座った。
と、視界にいつもと違う動きが見えた。少し先の出入り口の混雑の中にいる4歳くらいの子供だった。東京は雨続きで皆、傘とかばんを手に、その日の車内はいつもよりさらに窮屈そうだった。その、大人が手に持つかばんと傘の間に子供の頭が動いている。子供の顔に傘があたりはしないかと、私は少し心配だった。離れているので席を替わることもできない。すると、次の瞬間、その子供は大人の足もと、それも足の間になんとスルッとしゃがみこんだ。子供だからできる一瞬の芸当だった。でも、それは、彼のお父さんの足の間だった。
次の瞬間、お父さんと子供は上下で顔を見あわせて視線をかわしていた。お父さんは子供の神出鬼没なその知恵に、少しびっくりしたように、でもなんともやさしい笑顔。お父さんは今日は会社の帰りにお迎えにでも行ったのだろうか?東京では最近、朝夕に会社の行き帰りにお父さんがお迎えをしている様子を見かける。しばらくそっちを見ていたので、私はそのお父さんとついに目が合った。指で自分と座席を指差してパントマイムで伝えた。
「ここ、座りますか?」
即座にそのお父さんは大きな目をして、笑顔で首を横にふって又パントマイムで答えた。
「いいえ、けっこうですよ」
むっつりと押し黙ったような地下鉄の車内で、なんだか少し心が少しふくらんだ。
別のある日、まるで童話の中のいいおじいさん、いいおばあさんのような二人が乗ってきた。
その日はあまり混んでいなかったが、何人かがスッと席を譲った。おじぎをして座る二人。そのうちおじいさんは眠りはじめた。横にいたおばあさんは、おじいさんのひざの荷物が落ちないようにさりげなく手をそえている。小さな身体にツイードのオシャレなスーツを着ていらした。やがておじいさんが起きると、おばあさんの荷物も自分のひざに持ち替えた。実に自然に。
車内がさらに空いてきて、私は彼らのはす向かいあたりに座った。寄り添う小鳥のような二人が視界に入っていた。
私の降りる駅はもう少しだ。と、その時おじいさんの声。おばあさんに話しかけた。
「早かったねえ」
二人は私と同じ駅で降りていった。私はそのあとに。彼らはホームの途中にある、階段に消えていった。後ろから歩く私の目に、又、おじいさんがおばあさんを気遣うようにしながらゆっくりと階段を降りる姿が見えた。
いつものように駅近く地下の自転車置き場に降りると、私は自転車にまたがって家路についた。少し疲れていたのだろうか、自転車をこぎながら、なぜだかポロポロと涙がこぼれてとまらなかった。
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