トントン、、、。
外から木戸をたたく音がする。
「失礼いたします」
初老の女性が葛きりを運んできてくれた。
漆塗りの椀に入っている。いくぶん使いこまれた味わいの落ち着いた赤い椀は、その表か裏かどちらかが黒だったと思う。いや、椀が載せられたお盆が黒だったろうか。
もしかして黒蜜の入っていた別の器のことだったかもしれない。
幕間の照明はほの暗く、桟敷席に座った私の眼に、この漆塗りの椀の中のつやつやとした『葛きり』が映っている。桟敷席の入り口は、お茶の席のようにかがんで入るようなつくりだったようにも記憶している。
座っていると、なんだかお殿さまの籠に入っているような気さえしたのを思い出す。
東京、東銀座、歌舞伎座。
学生割り引きではじめて入ったのはもう20年近くも昔になる。歌舞伎座に来て座っていることに、わけもなくただ感激していた。
それから大学を卒業し、さらに何年かがたったころ、知り合いがチケットをいただいたと電話をくれた。知り合いもニクイことをする。何も言わずにただ郵便でチケットを送ってきた。送られてきたチケットを見てびっくり。それはなんと憧れの桟敷席だった。先ほどの記憶はその時のこと。
もう、ずいぶん前のことで私の記憶も曖昧になってしまったが、それでも幕間に聞こえてくる独特の日本の音、劇場の興奮と非日常性とざわめき。そして、漆塗りの椀に入った葛きりの図。
それらが何よりも強く脳裏に刻まれている。
幕間に注文した葛きり。
歌舞伎の題目や中身ではなく、食べ物の『葛きり』が一番頭に残っているのもなんとやらだが、その、漆塗りの腕の中につややかに盛られ黒蜜のかかった葛きりが、私の中の日本のイメージと実にしっくりいくのである。陶器のことをチャイナというけれど、漆器のことをジャパンという。
歌舞伎は日本の伝統芸能。敷居が高いと思っていたが、学割で当時確か6百円くらいだったように思う。今年5月の市川海老蔵襲名披露大歌舞伎を見に行って以来、やみつきになった私の友達が、最近今度は玉三郎を観に一日中座っていても3千円くらいだったという。桟敷席は万円台でとても自分では手が出ないが、場内にはいろんな席がある。
あんなに暑かった夏は猛烈な台風と共にどこかへ行ってしまった。これから秋がはじまる。
私はあの、ラッキーな桟敷席観劇からもう何年も訪れていないが、能や歌舞伎にひさしぶりに足を運んでみるのもいいなと思う今日この頃である。 |