1 ピアノとの出会い
私が幼児期のころから胎教ブームだったとは思いませんが、物心ついたときには、なぜか童謡のドーナツレコードをかけて歌いおどるという幼児に出来上がっていました。ちょうどそのころ親はピアノかまたはバイオリンを習わせるつもりだったらしく、私が興味を示したのがピアノだったので、情操教育の一環として5歳の私にカワイのアプライトピアノを買い与え、ピアノの先生も手配したと言っていました。
最初の先生は某音大卒の先生だったらしく、きちんと基本のバイエルと幼児の童謡をピアノで弾き歌うことを教えていたとのこと。
ここまでは順調だった?らしいのですが、小学校に入って、練習がつまらなくて毎週のレッスンが苦痛で、またカワイのグレードテストのために練習するのもいやでたまらなく、折りしもちょうど中学校受験の塾通いと重なったために「やめやめ!もうノルマのようなピアノなんていやだ!!」となりピアノの月謝代はそのまま塾の費用へ化け以後ピアノとは別れることに。
しかし音楽、とりわけピアノ曲はとっても好きだったので聴くほうはどんどんエスカレート。シュトラウスの「ウイーンの森の物語」から始まりショパンのピアノ曲集(ワルツ集、練習曲集、前奏曲集)にはまる小学6年生ーーーーってちょっとキモイ子供だったかも。
2 お稽古事としてのピアノから離れて
無事中学受験を乗り越え、大学受験までの間は勉強の傍ら趣味でいろいろ聴きまくっていましたが(NHK-FMのヘビーリスナーだった)それで耳に残る音をピアノに向かって鼻歌歌いながら、音を探しつつでたらめながらも弾く、ついでにいろいろな曲のメロディーをつないで一曲もどきを作り上げるという遊びをずいぶんしていました。
しかし指はまったく動かなくなり、ろくにトルコ行進曲もひけなくなりもうクラシックは無理だなとあきらめた時期でもありました。
大学受験を乗り越えて、大学生のころは下宿住まいですから楽器なんて持ち込めませんし、スタジオを借りるなんてお金もありません。もっぱら教育学部の音楽棟に忍び込んで、気が乗ったときにはピアノ遊びを続けていました。
たとえば今日の料理のテーマからラジオ体操につないでキューピー3分間クッキングの曲へつないでみたりとか。
「ルパン ルパーン」と歌いながら映画の主題曲のイントロばっかりつないで遊んでみたり。ミュージカル、映画の曲も頭に残る音をつないでメドレーにして遊んでみたり。
楽譜? んなもんありません。すべて私の頭に残る音を頼りに、ピアノに向かい「こんなものかな?」と探ってつむぐ作業の連続です。ーーーー結局今も同じなんですが。たはは。
大学生になると、お小遣いにも余裕が出たので、CDを買い漁りそれを聴きながら、楽譜を眺めるということもちょくちょくしていました。ーーー結局読めないんだけど。でもショパンには憧れがあってかなり楽譜も買い込みました。
たしかTVでみたアニメで若草物語のなかで末娘のベスがピアノを弾くシーンがあり、その曲がショパンの幻想即興曲だったと記憶しているのですがあれで本当にほれ込んでしまったのです。しかしいまもって弾けないんですがね。
大学をやっとの思いで卒業して、社会人になって就職してからはなかなかピアノに向かうことがなくなりもう大忙し。48時間戦えますか?状態でした。
しかし、ちょっと残念な形でのピアノとの再会になったのでした。
3 きょうもおうちで
インフルエンザにかかり、それをこじらせて入院する羽目になりしばらく自宅療養を余儀なくされたのです。どこへも遊びにいけない中、時間ばっかりあって本当に気がめいりきっていました。しかし、ピアノはちゃんとそこにいたんですね。
再会?というべきでしょうか。いや救われました。
暇な時間潰しと思っていたのですが、何のその。買い込んでいた譜面を一音一音なぞりながらCDに収められているピアニストの様には到底いきませんがなんとか一曲仕上げる作業に没頭することは自分の病状を忘れるにはうってつけでした。また曲の向こうに作曲者の思いを触れるような気がしてなんか孤独感もずいぶん慰められていましたね。
ショパンの雨だれ、−−−文字道理雨だれのような五月雨のようなタッチで、震える思いでゆっくり弾ききれたときには涙が出ました。
そうこうする内に数ヶ月の自宅療養から外出許可が出て仕事も以前のようなハードなものから、体調を見て勤務できる職場へ転職し、時間もできたのでちゃんと本格的にピアノを10数年年ぶりに習おうかと思い、「大人のピアノ」教室めぐりを始めました。
4 大人のピアノ教室ーーーいろいろはしご
最初はシマムラ楽器のピアノ教室で、ショパンのワルツ集を弾きたいということで習いに行きました。
が、私は楽譜を無視ばっかりするから先生には申し訳なかったのですがうまく習うことができませんでした。半年ぐらいでやめちゃいました。クラッシックってきちんと譜面通りに弾かなきゃいけない音楽だったとは、このとき知りました。私の中では、「カラオケ」感覚だったのですよ。
作曲者の意図や、演奏者の模範演奏通りに弾くという意識がまったくなくって自分の中にあるイメージを作り上げちゃってから弾くものだから、強弱やフレーズ、時には音まで変えちゃってまして、そういう態度は、まじめに教えようとする先生には大変失礼な行為と映ったことでしょう。ちょっと残念でしたが、習うのはやめました。
仕方ないので我流でピアノを引き続けていたのですが指がもつれてどうも仕様がないので、近所の個人宅で教えているピアノの先生に習いに行きました。しかし、やはり運指のことや、指の力がないことでがっちりダメ出しされて、ろくに一曲も弾けないのに嫌気が差して1年弱でやはり止めました。
先生はいい先生だったのですが、私の根気と気力がついていかず、また小学生のころの「ノルマのピアノ」にだんだんなってきて苦痛が大きくなりやめました。
「なんで言った通りにできない!!」と叱られるのはたまらなくつらいことだったというだけなんですがね。強制されるのはいやだけれど、なんかしら自分で弾けるようになれないものかなと悩み、いろいろなピアノの上達法に関して触れている書籍雑誌を買い込み独習する日々が過ぎていきました。
5 ロックグループQUEENとの出会い
2004年5月1日深夜、風呂上りにNHK-BS2をかけっぱなしにしていたら、超ど派手でうるさい音楽が目に耳に飛び込んできて、見るのは近所迷惑と思い、すぐに録音ボタンを押して、音をしぼりながら何じゃこら?と思い見てしまったのがきっかけでした。
いやあ、あの番組までロックとは縁遠い生活をしていたものだから、あんなうるさいもののなかにきちんとした音楽的骨格を見て取れたのに驚いてしまいましたね。
てっきりロックというものは、勢いだと思い込んでいたもので、ピアノではなぞれないものとして気にも留めていなかったのですが、QUEENの楽曲に触れるうちにまったく考えを改めることになっていきました。
とりわけフレディーマーキュリー作の作品はどれもこれも骨格が美しくって、ピアノでなぞると映える映える!!もうとっても美しい世界がピアノの前で広がりびっくり。こういう感動はショパン以来の衝撃でした。
1冊だけあったピアノ弾き語りのQUEENの譜面集を買い、なんとかこれをピアノソロにできないものか試行錯誤をすることがすっかり趣味になっていきました。(これは今でも続いています)
しかし弾き語りの譜面って、メロディーのラインとピアノ伴奏ラインの2系統で書かれていますでしょ。今もなんですが、これをソロにするのって、結構難しい。
特に何となくメロディーは譜面で読めても、細かいテンポチェンジや、変拍子がきたりするとお手上げで、やはり元の「頭に残るまでひたすらカラオケ?アカペラ?になるまで歌い覚えこんで、それを頼りにピアノの鍵盤で音をなぞる」ほうが手っ取り早くなってしまい、結局中途半端に楽譜を手引きにしてあとは私の頭の中に残る音をピアノでつむいで行く格好でなんとなくピアノソロが出来上がっていました。
6 人前ピアノ?ピアノの輪は世界に広がる?
(1) 人前ピアノ/豪華客船の巻き(2004 11)
ちょうどそのころ職場の慰安旅行がありました。(2004 10 豪華客船飛鳥クルーズ 横浜→四日市)またべたなんですが、その客船のシネマボックスで流れていたのが「海の上のピアニスト」。いやあ、感動しちゃって、そのまま食後ピアノラウンジに行ったのがいけなかったのですね。
大好きなカクテルXYZをひっかけて、ほろ酔いになって抑制がぶっ飛んでいたために「海の上のピアニスト」がむくむくとしたくなり、このミーハーかつ中年の強気おばさんは飛鳥専属のピアニスト(外国の方、コミュニケーションは英語で)にねだって一曲弾かせてもらいました。
実に「ええきもち」でしたよ!!。なりきりピアノというのは酒の酔いの手伝いもあってとってもリラックスして弾けるものですね
いやあ驚きました。弾いたのは手前味噌の我流ピアノソロでフレディーマーキュリー作私編曲のlove of my life.
ピアニストの方も気分が乗ったみたいで、ビートルズの曲やらフォークソング(日本のではなくていわゆるトラディッショナルなやつ)いろいろピアノ演奏してくれ、それにあわせて私も歌う!というとっても楽しいピアノラウンジジャックのひと時でした。
ぜひan弾手さんも客船に乗った時には専属ピアニストといっしょに意気投合して、いい音楽のひと時を過ごしてみてください。旅の恥は何とやら気分ですよ!いやあ 本当にいい思い出です。
(2)ネットが広げてくれたファンの輪(2004 10月末〜12月)
このころからネットサーフィンでQUEENのサイトをいろいろ見るようになり、ギタリストのブライアンメイの公式サイト(brianmay.com)をみつけ、英語であることに悪態をつきつつもいろいろ孫引きしているうちに、公式な、非公式のサイト(mayniacs.com)にいきあたり、そこに、「あなたの演奏も募集中」という広告が出ている世界中のファンの作品集を集めているのを見つけびっくり!ちょっとここへ私の悪戦苦闘の記念作品も送ってみようと思うに至り、送ってみたところ、収載の連絡があり、サイトに収まったときには感激しましたね。なんか人前ピアノ?というより、世界に広がる音楽の輪という感じに感激しました。
(an弾手さんに紹介したあのサイトのwhite and blackのところです)
それと相前後して、新潟中越地震の起こった日だったのですが名古屋でQUEENのファンクラブ主宰のコンベンションが開かれ、そこへも出向き、今きっと大阪で公演中ですが、ロックミュージカルWe
Will Rock Youをフィルム上映されているのをみて大感激し、同じくファンの人たちと話す中ショパンも好きでかつQUEENも好きな人たちと出会え、二次会に行ったバーでピアノ弾き大会になだれ込んでいきました。酔っ払いピアノ大会!いや大変!今思うとしたたかに酔っ払っていたからこそできた芸当としか言えず、大変迷惑な酔っ払い客だったはず。いや店長には申し訳ないですね。何を弾いたかすら覚えていませんもの。
(3)ピアノの先生宅で演奏会(2005 7)
さてQUEENへののめりこみようはすさまじい勢いとなり、毎日のようにCDを聴きまくり、頭に入った曲からピアノに向かい、曲をピアノでなぞるということがほぼ日課のごとくなっていきました。
楽譜もかけないものだから、録音はテープに始まりMDデッキ、果ては楽器店に相談してCDーR購入して本格的にCDに落とすにいたりました。
職場の友人にあげたりしたところ、きちんと発表会をしてみては?ということになり、一気に話が膨らんで、ほかのピアノ発表会に便乗ではなくて、いきなり私単体のピアノソロ演奏会になって行き2005 年7月、近所のピアノの先生宅で単体のピアノソロ演奏会になりました。これがなんとまあ、その時にこのピアノの先生が呼んでいたFMラジオのパーソナリティーの耳に止まり、後日FMラジオで紹介された時には恥ずかしいやら面映いやら。今ではいい記念としか言いようがないですが、貴重な経験をいきなりさせてもらえたことに感謝しています。しかし演奏会自体は、このときは酒パワーが無かったのと虚栄心から演奏自体はずだぼろでして、痛恨の演奏会でした。聴きに来てくれた人たちには申し訳ない出来でして、以後かなり深い落ち込みになりました。
しかし落ち込んでいても仕方がない。しっかり練習して編曲も13曲になったところで、もう一度前述のサイトに送り、また収載していただきました。
(4)ファンクラブでバンドデビュー??(2005 11月京都)
2005 10月埼玉スーパーアリーナ 11月ナゴヤドームでQUEEN+ポ−ルロジャースのツアーがあり、見に出かけ、また新たにファンの輪が広がり、それが11/23京都でのファンクラブでの演奏会につながっていきました。
すっかりQUEENにほれ込んでいましたから、このファンの演奏会に自分もメドレーで20分ぐらいピアノソロで演奏をさせてほしいと願い出てみましたところリハーサルに呼ばれ、一応当日予定のメドレーを演奏したのですが、「せっかくそこまで弾けるならバンドとあわせてみたら」というプロの鶴の一声が入り、一回しかあわせられないのですが当日いきなりボヘミアンラプソディーのピアノにバンドで参加することになりました。
いやもう大変でした。時間はわずか1週間強しかないし、しかもバンドとあわせる経験は一度もありませんでしたから、もっぱらQUEENのオペラ座の夜のアルバムのボヘミアンラプソディーをかけつつ、それと一緒にバンドスコアなるものを始めて購入して必死であの細かいてんてんを判読して、なんとかできるだけ原曲に近いように合奏するのを、本当にいやになるまでやりました。
でも、本番はもっと大変でした。
照明は背中から当たり鍵盤は見えない上にもともと室内照明自体が暗いから楽譜も見えない。指を頼りにしようとしてもピアノの一個一個のキーの重さが違うくらい調整が厳しいピアノなのでまったく当てになりません。
もっと困ったのはPAがまったく聞き取れないこと!なにせスピーカーが背向かい。しかもアイコンタクトをしようにもピアノは舞台の袖を見る格好でセッティングされていて、中央にいるボーカリストがまったく見えず。さらにドラムがわずかピアノから30センチ。ライトシンバルは私の背中に当たりそうなところにぎりぎりの距離でセッティングされていて、ピアノの鍵盤をたたくとスネアドラムが共振するみたいで「ジリー」となり始め、私が弾くピアノの音がまったく聞き取れないというすさまじく厳しい条件でした。
触覚も視覚も聴覚も当てにならない中で、バンドとあわせるピアノ演奏ーーーーーいやーーー本当に参りました。なんとかベースの爆音とドラム(それもツインドラム)に押される格好でピアノ演奏なんてもともと聞こえないんじゃないかという感じでしたからかえってよかったともいえますが、バンドにはすっかり苦手意識が出来上がってしまいました。
2005年12月 2006年1月とバンドと合わせる機会はあったのですが本当にすっかりこりごりになってしまいました。しかし、最初に声をかけてくれたプロのピアニストに方が「バンドと合わせる人は少ないからぜひめげず続けてほしい」というのが心に残っていました。
7 本格的にQUEENが弾けるようになりたくて。
そうこうする内に2006 3月転勤をきっかけに引越し。これまですんでいた三重県を後にして、埼玉へ移動。これまで単身赴任だったのですが、10年ぶりに夫とようやく落ち着いて同居ができるようになり、仕事も生活も落ち着いたころ2006 6月から池袋のヤマハでピアノを習い始めました。
ちょっと横道にそれるのですが。ピアノの先生って本当にいろいろいますね。
これまでの先生とこの先生は、ずいぶん毛色が違っていて業界って底知れないなと言う印象を持つに至りました。
実はいろいろ悩んで買い込んでいた本の中に音楽理論の本がありまして、それがまったく見るからに「辞書」!!という感じで、さっぱり歯が立たない積読の書籍でした。何の縁か知りませんが、その著者がこのヤマハ池袋で教えていると知り、それも「何でもピアノ」というタイトルの教室でピアノ/鍵盤楽器にかかわることなら何でもござれの教室を開いているとのことでしたから、少々不心得者にひねくれちゃった私は「積読本の著者に果たして習えるものだろうか??」と危ぶみながらも怖いもの見たさで体験レッスンを申し込んでみました。
目的は「QUEENをどうにかピアノソロに料理するのを教えてほしい」といういささか無理難題とも思える目的で望んでみました。
確か弾いたのはwe are the championsの途中までだったかな?
どうも先生も「この生徒、手に負えるか?」と思ったようで、なかなか武士の居あい抜きみたいな雰囲気の体験レッスンでしたが、なんとかOKということで、以後今まで習っています。
内容は???−−−−−これは今もって変化中というべきか。最初に生徒の大きな動機がありき、という教え方の先生でして、レッスン内容もその時の生徒の願望を聞きつつという、何とも贅沢というか、行き先不明の未知への航海のようなもので、楽しいというかなんか行き当たりばったりというかーーーしかし恐ろしいもので、これまでのどの先生よりも大人になってから習った先生たちより長続きして熱心に通っています。
やはりこのいい加減さが大人のレッスンでは肝心かもしれません。
先生もひょっとしてこのいい加減さを楽しみに教えているのかも知れませんね。(この点に関してはan弾手さんの著書の内容にも似たような記述があり読んだ時に思わずひざをたたいてしまいました)
レッスン内容は本当にまちまちで参考になるかどうか?ですか時系列的にかいてみますと…。
2006 6月 先生の書いていたQUEEN弾き語り譜面(絶版の品)をコピーさせてもらい、それを元にピアノソロを作りもっていく。
見ても弾けない譜面(コード譜面)の解説をしてもらう。
どうやらコードが読めるのは最低条件だったと知り青ざめる
2006 7月 Killer Queenのピアノソロもって行く。
バンドアンサンブル用に直してといわれ、さらに譜面に書いてくるように言われる。
楽譜読めないのに書く?と目が点になりつつも先生の著作の音楽理論の本をしっかり読みつつ何とか五線紙と格闘。
先生から郵便で先生バージョンのKiller Queenバンドバージョンが届き、弾けない私はそのまま持っていく
結局先生が弾くのを聴きながら、鍵盤の先生の指の格好をみてなんとか丸暗記し、その後譜面で確認する作業を繰り返す
2006 8月 ドラムとベースの入った先生作のKiller Queenカラオケにあわせて演奏するように指示される。
自分のなかにメトロノームを作ることと、一方で相手の音を聞きながら演奏することを指示される。
しかしできない(^^);!
(8/27) 鬼のピアノ発表会?演奏会
リハで先生の呼んだプロのベーシストとドラムの人と合わせるが、カラオケでもらっていた音と違うので、一気に上がる。
しかも相手のプロはもっとすごい。上がった私に合わせて一緒にだんだんスピードアップして合奏してくれる!!!これには本当に参った。おかげで装甲車が走るみたいなKiller
Queenになってしまった!!
私がドラムのテンポを頼りに弾こうと思っていたのに、ドラムもベースも私に合わせて、わざと走ってくれるから自分の力量のなさがしっかり出る演奏になった。
「先生はオニーーー!!!」と思いましたよ。(先生は余裕で笑ってあさってのほうを見て知らん振りしてましたけど)
2006 9 やはりピアノソロつくりにいそしむ。
先生からはロックピアノとポピュラーピアノの違いについて少し解説が入る。
ロックのバッキングを無視するとそれはロックにならない。音楽の要素に、リズム、テンポがあり、メロディーだけなぞっても原曲の雰囲気には到達しないということ。クラッシックと同じで左右の45の指の力がないと弾けないとも指摘。
2006 10 母の誕生日プレゼントに、母が好きなラ・メールという曲を弾いてあげたいと思い古本屋で見つけたウクレレの譜面集の中にその曲があったのでピアノソロにしようともくろむ。しかし、コードが読めない私は、ウクレレの譜面はCメロで書いてあるのに結局メロディーしか読めないもので、自分で勝手にメロディーに合うように左手の伴奏をつけて仕上げて先生に聴かせたところ「これはシャンソン。おまけに4/4拍子。あなたの演奏は3/4拍子」と先生苦笑している。
この時に私は、拍子というものも理解していないことも判明。シャンソンというフランス風曲調を理解していないことも判明。きっと演歌を童謡風に毒抜きして、おまけに拍子までかえるという珍妙なことをやってしまっていたらしい、と知る。
4拍子を3拍子に知らないで変えてしまっているというのはどーゆーこと?? 私の頭ってどうなっているんでしょう??だから「でたらめ」なんですよね私。
お約束がわかっていないし、無視してそれでも仕上げてしまうこの素人の怖いもの知らずを地でいく性質!先生は楽しんでいるみたい。結局先生がラメールを演奏して、それをCDに焼いて母の誕生祝にしました。
指の強さがないことに関して、練習に使えるグランドピアノ探しをネットサーフィンでしていたところ、近くにスタンウエイを置いている貸しピアノスタジオをみつけ、早速週一回2時間で借りて通うようにし始めた。
武蔵野音大近くのPスタジオというところです。なんでも去年の9月ドラマ、のだめカンタービレのモデルになったリアルのだめさんはこの音大のピアノ科の卒業生だと(ちなみにリアル真澄ちゃんもここ出身とのこと)受付の武蔵野音大卒声楽家卒のお姉さんに聞いて、のだめにもどっぷりつかっていきました。
2006 11月 先生ご夫婦の演奏会に出掛ける。その名は「二人でピアノをーーーvol. 1 0 FOREST 2」この中でKILLER QUEENをご夫婦で連弾されていてとっても幸せ気分でした。
後日レッスンで連弾の譜面をいただくもこれが難しい。やはり聴くのと弾くのとでは大違い!私だめねえーーーどしよと悩む。
2006 12月 レッスンは暗礁に乗り上げつつありました。なぜって、やはり私はコードが読めないし、説明は無いし相変わらず楽譜読めないし、ロックピアノの弾き方って分からない。
しかも先生、楽譜に無いものは自分で聴いて譜面に起こして持ってらっしゃいとのたまわく。「あのー私それが出来ていれば苦労してないんですが」と言いたいのをぐっとこらえて−−−−−いやになってネットサーフィン。
するとここでan弾手さんの奮戦記に行き着きました!!本があるとのこと。すぐに池袋のリブロへ行って3冊ゲット!スルスルスルリと読めて、うそのようにバンドスコアが読めて、One
Visionが弾けて、大感激!目からウロコ本当に落ちました!
何となく譜面との付き合い方も分かり、フレディーマキューリー作の「There must be more to life than
this」を何とか譜面にして持って行きました。 −−−−メロディーは何とか書ける。単音だから。しかし伴奏の和音の響きが、何の和音のミックスか分かりにくくて、それでも最低音の音が確かコードになっていると聞いたのを記憶していたので、最低音に集中して聴き耳立ててそれをアルファベットで記入して持って行ったところ、先生はようやくそれが一歩とみなしてくれたみたいでその後のレッスンが急激に変化しました。
つまり作業としては
1 弾きたい曲を聴いてCメロ譜に自分なりに起こす
2 先生が添削
次に私は今回はちょっと先生の音楽理論の本も読み進んでいたので
(解説はなかったぞー”!中年おばさん無理して背伸びして)
3 曲の調を判読して、
度数(デグリー)に直して、
それがどういう機能を持つ和音か判ずる
(トニックか サブドミナントか 導音か 代理和音かなど見て
終止 偽終止 半終止かぐらいの当たりをつけ書き込む)
−−−−−−どうやらこういう作業が分析というらしいと知る
4 先生が分析を添削して、もう少し解説してくれる。
という流れになり
5 ロックのピアノのバッキングの仕方を含めて編曲する上で使えるスケールの説明。
(ノンダイアトニックな音でも代理和音にしてみると使えるとか)
と一挙に一回のレッスン内容が高度になりました。
確かに、コードが分かっていないと先生のレッスンは始まりませんでしたから、こういう点で本当にan弾手さんには深く感謝せずにはいられません。ありがとうございます。
年末最後のレッスンではちょっと先生がびっくりしていましたが、いきなり私が昔自分なりに作曲していた短い曲をバージョンアップしてCメロ譜に起こして持参し、先生の前で弾いてみました。20小節くらいの短い譜面でしたが、これには先生が1発OKくれまして私も驚きました。なんか教会の響きみたいだな、と感想まで。
しかしやはり先生だと思ったのは、「実際弾いているようにこれはきちんと楽譜にしたほうがいい」と言われ、さらにさらさらと黒板に、私の曲は3回転調していてそれもGメジャーをEマイナーに読んで転調としているとも言いつつ分析されていきました。
私って何にも計算、設計していないのに、そんなにすごいことさらっとこの短い小節の間にやっていたの?と自分がびっくりさせられました。
無意識に出来ていたというのは恐ろしい。しかし無意識に出来ていることって、意識化すると出来ない。というところで、2006年の最後のレッスンが終わりました。(余談ながら、この曲を今度の発表会では演奏予定です。)
8 2007抱負
このまま終わっておけばよかったのですが、an弾手さんを見つけたネットサーフィンの時に、ついでに先生の名前(林知行)で検索したところ、先生が結構すごい経歴の持ち主で、でたらめおばさんを教えるのはもったいないくらいの人であったと知りびっくり!!させられました。
東京芸大作曲別科出身。−−−−恐れ入りました。
武蔵野音大の声楽科出身の方に聞くと、何やら作曲科の人は頭よくて教養も深いらしいです。先生が自己紹介のとき「自分がバンドマン」で「キーボード」担当なんて言って、趣味で「ベースも弾く」けれどこれは本当の趣味、と言っていたのに油断していた私がうかつでした。
しかし萎縮する私ではございません!!素人怖いもの知らず2007もどんどん行きますとも!!俄然火がつき、目下作曲にもいそしみつつあります。
どうやら作曲という作業には、楽譜に起こして、自分なりに分析して無駄を省くという、作文のときの校正にも似た作業が必要ということがなんとなく年末のレッスンで分かったので、早速仕上げた1曲は自分なりに分析してみたものの、校正を自分でできる力量はさすがになくて、早速今年最初のレッスンが楽しいことになりそうです。
意図的に「とうりゃんせ」の曲の中の「こわいながらもとうりゃんせ」のフレーズを力技でねじ込んだところもあり、どう先生がそれをコメントするか、それこそ「こわいながらもーーーー」です。
ほんとうにどこへ行き着くのか分かりません。でも楽しいです。やはりピアノというものの奥深さでしょう。an弾手さんも、新企画ついでに、作曲のコーナーも作られてみませんか??はまりますよ。
大長文になってしまいました。
ほかの方のピアノとの付き合いも見てみたいです。
ではでは。