Vol.96 今・現在 [2010.8.20]

 朝、目薬を注そうと見上げたところで小さな小さな虫と目が合った。なぜかひと目でそれが、こおろぎの赤ちゃんだとわかった。
いすに乗って天井に近づいて、丁度むいていたグレープフルーツを差し出して、誘ってみると逃げないで乗っかった。
 しばらくして、こおろぎはどこかにいった。なすのヘタなどを床に置いてみたけど、一日現れなかった。そして、夕方、部屋で床にへばりついてストレッチを行っていたら、またそのこおろぎが、私の目の前に今度は落ちてきた。あまりに小さいその生き物に思った。
「この部屋の中にいても、キミがちっちゃすぎちゃってねェ…」
外はムッとしたすざましい残暑。でも、その小さなこおろぎをまた誘うと手に乗った。
「お外にイコか」
ベランダで一瞬止まったこおろぎは、あんなに小さいのに、私の手に実にしっかりとした脚力の余韻を残すジャンプで、夜の庭に消えていった。

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 映画「Inception(インセプション)*」を見た。
内容的には、スライディング・ドア、マルコヴィッチの穴、エターナル・サンシャインなどとも重なるストーリー、暗く複雑な内容で、ことさらこの映画ではストーリーを追っても私の頭はついていかない。けれど、夢なんていつだって脈絡ないものじゃないか。いつの間にか頭で見ないで、感覚で見ていた。そして観覧後、いい加減こんがらがったものを見ていたのに、私はすごく元気になっていて、今生きていることの幸せをヒシと感じてしまった。
生きていると、実は摩訶不思議なことを含むいろんなことが誰しもあるはずだ。小学校のころ、あるときふと、全くこの映画さながらに本気で“『今』って本当は『夢』なんじゃないか”と思ったことがある。特別空想好きな子供というわけじゃなかったけれど、きっと脳が成長する時、シナプスがつながった時、こんなことを思ったんじゃないだろうか。それは本当に突然に、いきなりだった。そして、今でもこうやって覚えているが、その時はすぐにまた頭が違うことを考えた。
あらためて自分の過去の出来事を思い返してみたら、誰しも、あのときあったこんなことが実は本当なのか、不思議に思えてくることもあるはずだ。誰かに出会った時のことなど考えてみると、この感じがわかりやすいかもしれない。

 おまけに、この映画を見たのが新宿だったのが、また良かった。
外国の映画に出てくる日本や東京はジャパンやトウキョウであって、いつも“ナンカチガウ”と思って観ていた。映画を見終わって外に出ると、視覚に飛び込んできた街の『ネオン』。いつもは陳腐に安っぽくしか見えなかったネオン。外国の写真家や旅行者の“TOKYO”とありがちなネオンの写真。それは単に彼らが外国人で、異国の文字や見慣れないものだからであって、これをニッポンなんて言ってもらっちゃ困る、なんて、私は高飛車に感じていた。ところが、漢字にカタカナや時折ひらがなが混じって、赤や黄色に白や黒が混じる光の縦書き。それがのぼり旗のように本当に立ち並んでいる。それが本当に映画の中のものそっくりで私の目の前に迫ってきた。そっくりって、こっちが本物なのに…。
“…デモ、ホンモノッテ?”
こんなものがあるもんか!と憤慨すらしていたヘンなキャッチコピーだって、そのまんま、ホントウにある。
 ビルが文字どおり林立し、歩くとそれらがパースをもって迫ってくる。街角をのぞくと、ホントウに、赤提灯がある。
 “…ホントウッテ?”

 交差点に立っていると、大声でセールスする店員や街を行く人の歩き方も、まだ全部映画のようだった。映画をみると錯覚にしばらくとらわれ、皆が主人公のような顔つきや歩き方をすると、昔、読んだことがある。最近はとんとそういう気分にもなれなかった。でも、この日の感触はそれともまた一味違って、見慣れてしまったと思うものやキライだと思っていたものが、全然違ったものに見えた。たいくつでマンネリ化してみえる『日常』も、『日常』なんて言っていいのか?という気分にまでなった。大体、私は熊本で生まれたのになんで今ここにいるんだろう?出張ではじめて海外に行ったときも、同じことを思ったけれど、そういう風に感じはじめたら、どんどん面白くなってきた。
全く、毎日こんなんでいいのかなあ、私はどうしたいんだろう、と疑問に思ったりしていたけど、ちゃんと生きているじゃない、なんて、とっても楽しくなった。
まったくもって、自分が満足していると、気持ちがずいぶんラクになるもんだ。

 “我思う故に我あり。”“I think, therefore I am.” “Je pense, donc je suis”  “cogito, ergo sum” なんて。ふふっ。
なんというか、この難しい哲学が、楽しい感覚になる気分をちょっと刺激してもらった感じだ。



*Inception(インセプション:初め・開始・発端)

 

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