またお隣の庭の話だが。
別に覗き見ているのではない、私の眼下にいつも広がっているのだ。
格段すごい庭ではない。質素だが、確実にそこの人がこの庭に愛着を持っているのがわかる、そんな庭だ。
人が大事にしていることも、この庭を心惹かれるものにしているのだが、そこで生きている植物や人間以外の訪問者と木々や植物の『日常』に思う。
どれほどバランスがとれ、節度があり、すべてが時宜を得ていることか。
春先から盛夏にかけては、花の色が緑に混じって絶妙だ。蝶がひらひらと蜜を求めにやってきたところに私の瞳が遭遇した。
色。創られた部分ではなく、『しぜん』それ自体の持つコンビネーションはなんと美しいのだろう。この葉の緑ならきっとこの分量の暖色が最高だといわんばかりに鮮やかにピンクがかった小さな赤い花。そこに見えかくれする土の色。そして空は澄んだ青にちょっとニュアンスをもたせるように雲。
そんな日には私かな?とでもいうように飛んでくる白い蝶。もっと青く晴れた日には黒にトルコブルーも鮮やかな蝶、黒蝶もあでやかに色を添える。
音。鳥や蝉、秋には虫が鳴く。気をつけて聞いていると、例えば蝉にも個性がある。
行為。彼等はただ、生きるために蜜を求め、子孫を残す役目をたんたんと果たすべく、食を求め生きているように見える。その時の蝶のひらひらと舞う様子に、心から生を楽しんでいるリズムを感じたのは勝手な思い込みか?
だいぶ前には、目の前に成る柿の実に自分を投影したこともあったっけ。
部屋のドラセナも15年たって多分大人になったのだろう。花をつけ、種をつける。それはきちんと2月。
『にんげん』だって、一生懸命生きている。でも、人間はどのくらい、そこにたたずんでいるだけで美しいのだろうか?私には、風景の中で人間が自然に溶け込み美しいと感じたことはほとんどない。もっと感情的に美しく見えることはあっても。やはり人間は、知的に何かをしてなんぼの存在なのかも。だが、自分では気付かないわたしたちの『身体』。そこに『しぜん』と同じリズムの美しさがある。どんなに科学が進歩しても眼を見張るいろいろのメカニズム、それがまさに『しぜん』。でも、そんな身体があるのに『にんげん』は欲が多すぎる。今日も又、ニュースから胸の悪くなるようなことを告げられる。
『自然』には人間社会とまた異なるかたちの生存競争というものもあるし、過酷にまたは、静かにその生きているリズムが止む。
今年もアパートの通路に4匹、カナブンが仰向けになっていた。
「こんな最後が…」という気分になってしまい、私は彼等をそっとつまむ。と、まだ、力なく足を動かす。彼等をコンクリートの廊下から、外の葉っぱの影の土に置く。
われわれには『唯、生きる』ということがなんと難しいことか。
それでも、私達には日々、喜怒哀楽、さまざまなことが用意されていて、それをどう、感じるか、それにはひとりひとりの自由な解釈を許されている。
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