ものものしいニュース満載のゴールデンウィークとなった今年。
こんなとき、お天気の事や、季節の風物の事をニュースで聞けることがどんなに平和で素晴らしいことなのかと思う。3月末からあの魅力的な興福寺の阿修羅像も東京にやってきた。かねてから私は阿修羅の顔は夏目雅子さんに似ていると思っていたが、あるNHKのTV番組でもそう言っていた。司会者のぐっさん(山口智充)も見事に大仏系の顔をしていて、つやつやと美しく見えた。
日本と言えば、その昔『鎖国』をやってのけた国。それが良い悪いではなく、今考えるとちょっとびっくりする。そのころは日本人であることに『自信』を持っていたのだろうか。長崎にだけは門戸を開いて自給自足ということだったのか。なんだか今では、想像も難しい。
そんなとき、村上龍さんのあるネット通信に出会った。
「ハロウィーンなんかやらずに節分をやれ、って思うんだよね」彼はそう言っていた。
私は村上龍さんの特にファンではないのだが、ときおり、大事な時になぜか彼の言葉に出会い、なんだか共鳴する。冬まっただ中にタンパク質豊かな大豆を食べ、「鬼は外、福は内!」と、幸せを願うのだ。そういうことを大声で楽しみたい。
私は毎年ひそかに、なんだか幸せになりながら、でも実はちょっとテレながら豆まきを行っている。そう言えば私の好きな『フランス風』カフェで、節分をイベントにしていた。豆まきもし、ハロウィーンをやるのなら、それは『何でも好きな日本人』らしくてほほえましい。『日本人であること』そしてこの文化を堂々と楽しみたい。
昨今の報道は事柄をあからさまにするだけで『配慮』に欠けることも多いと感じていたが、実はそのすべてが『現代』を浮き彫りにさせている気がする。
草薙さんのことだって、まあ、言ってみれば彼の会見通りだが、さすがに見たことはないが、『裸踊り』という宴会芸だってあるじゃないか。まあ、さほど悪くない場合はきびしく忠告はするが、恩情ってことだってあるじゃないか。『江戸の粋なはからい』なんてものはそういうところにあったんじゃないだろうか。これは、もしかしたら大勢の人が感じたことかもしれないが、それが極端になくなってきているのが現代と思えてしまうのがかなしい。何でもあからさまで、つまんない世の中になってきたなあと思った。
そして今、『海外』がある意味、とてつもなく近くなって、それが問題の種にもなる。
新型インフルエンザ。こんなに人が仕事や旅行で移動する今では、やっぱり手洗いとうがい、そして、マスクしかない。奇異だと言われようが、やらないよりやったほうがいいだけかもしれずとも、自己防衛ではとっても大事なことなんだ。こんなにも皆が簡単にどこへでも行き来できる世の中なのだから。
海外との仕事でも本当にカルチャーギャップというものはころがりまくっている。
海外とはコミュニケーションすればいいというものでもなく、どうやってもぬぐえない文化の差というものがあって、それは本当に『些細なところ』にどっかりと居座っているものだ。悲しいくらい、どうにもならないものもある。まあ、しっかり話し合うことが大事だが、なんだかめんどうになってくることもある。「言わずともわかる」という感覚、これは自己満足なんだろうか。素敵な感覚なんだけど。
そんなことを思っていたらこんな番組に出会った。鹿鳴館時代、あの津田梅子さんと共にアメリカに言わば、国費留学をした大山捨松さん(山川咲子)という女性がいる。超良家の子女で、帰国後は鹿鳴館の花と言われたそうだが、彼女はその卒業弁論で「海外の国は自国の利を得るため、日本に巧みに取り込む。それを阻止するため、一滴の血がなくなるまで私達は戦うだろう」と語り、外国人から大喝采を得たそうだ。この言葉はいわば『時代』だが、誇り高さをたたえている。
保守的といわれそうだが、こんな風に選ばれた人だけが厚遇を受けるという『区別』も大事な気がする。自分の身の丈を知り、それに素直に努力する、そんなところから本当は大事なことが見えてくるようにあらためて思う。
捨松さんとともに1860年代生まれの人は他にも稲畑勝太郎さんという人がいる。 染色で有名なフランス・リヨンに当時、まだ彼は15〜6歳だったそうだが、これまた国費留学。そこで、「日本は属国だろう」と言われ、そのフランス人を投げ飛ばしたそうだ。そういうことも、今では『暴行』なんて言われかねないのが悲しすぎる。実はこの名前は最近偶然、会社の仕事で聞いていたので、番組でエピソードを知りハっとした。なんだか最近気になっていると、それが話題になったり出会ったり、自分の目と鼻の先にそれがあったりすることが多い。
そういうわけで、友達と公園での〜んびり、風と木のそよぎを眺めながら過ごした。
|