今年もドラセナは見事な花をつけた。昨年ドラセナは15年目にはじめて、花をつけた。まるで春が来るまでのマリコの不安定な時期を見守るように。
そして去年の夏、そのドラセナの鉢のはしっこにふと、どこからか飛んで来た雑草が芽を出していた。それは今、半年たってもまだまだ小さいけど確実に育っている。ドラセナは室内で育てているから、週末にほんの少しの間ベランダに出した、その時のいつかどこからか飛んで来たらしい。
ちょこんと申しわけなさそうに、円形の鉢の中、それでもドラセナの根元から最も遠い鉢のはしっこに芽を出している。何の芽かまだわからない。それが何の植物なのか私は今、見守っている。
「君は何者?」
春は梅に桃、こぶしに沈丁花、桜に菜の花、いろんな花が咲く。そして、気をつけてみると、雀やことりの赤ちゃんも生まれている。
人間はそんな春を楽しむだけでなく、卒業や入学、人事異動やその他いろんな浮き世の変化の時期に、なんとなくうれしいような悲しいような不思議な時となる。春はあけぼの。あけぼのが美しい。あけぼのは、はじまりなんだ。
メディアには、最近の政情不安、経済・就職難、鬱人口の増加、そんな負のニュースがさかんに聞こえてくる。
嫌なことも起るものだ。桜が咲く夜、うんとまた寒い風が吹くように、いいことばかり、なんてない。
『そんな時は、近寄り過ぎずに、遠く離れて客観的に深呼吸できたらいい』
ある日相談したとき、そんな言葉をもらってはっとした。そして、こんなことも思い出した。
小学生のころ、夏休みの宿題『へちまの観察』をしていたある早朝のこと。観察も中盤だったろうか。もう、本葉もかなり生い茂ったへちま。私はふと、その葉脈のひとつひとつに気がつき、とほうにくれた。
「えっ!?観察って…これを全部ちゃんと描かなきゃいけなかったのかな?」
まったくもって、くそまじめでごくろうさんな考え方である。
その『くそまじめ』な考えを持った私は、とりあえず、一枚だけはちゃんと描いてみた。でも、次からは、それに似たバリエーションになった。さらには、それをひな形に『雰囲気』に走るしかなかった。そして、心はいまいち晴れなかった。やっぱり、全部は描けないや。
三つ子の魂百まで。
こんな『くそまじめ』で融通のきかないところが、私にいろんなプラス、いやマイナスの作用をしている。もし、その『くそまじめ』を貫けたらまた違うんだろうが(いや、はた迷惑なだけかもしれない)それもできない。わかっちゃいるんだけど…。いや、何にもわかってないのかもしれない。
困った時は、もう少し柔軟な方向に持って行った方がよさそう?
『困ったらケツまくって逃げろ!』
こういうことを言った下町のおじさんもいるそうだし。
TVで、宇宙ステーションのことが報道された。
私が小さいころ母が言った言葉が響いて来た。
「昔なら夢でしかなかったことが本当に次々に本当になってる」
アポロが月へ行ったときの話だ。
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