千代田区のとある小さなビルで働くようになって早一年になる。
こんな小さなビルにも、いろんなセールスが来るのに驚く。総務などに勤めてこられた方々は、このようにいろんなセールスが来ることには慣れっこなのかもしれないが、私は外部との交渉窓口に近いところで働くのははじめて。長いこと会社内部の現場で働いてきたが、今は極めて少人数のオフィスなので、いろいろなことをしているわけだ。
セールスに目立つのはまず、人材紹介会社。電話でのセールスも人材紹介会社が一番多い。このようにアポを入れようとするのは営業の第一歩なのだろうか。上司は「必要な時はこちらから連絡します」と言っていた。それが本筋だろう。
それから次はオフィス機器の会社、そして展示会の施工会社、など。正直、電話でのセールスはいつ何時どこからであっても、あまり得策とは思えない印象を残す。まず、唐突だし、中にはいきなり「社長様はおいででしょうか」というのも実はかなりある。これはマニュアルとしても、どんなもんだろう、私はいつもそう思う。まず、それ自体敬語でもある社長に様をつけるのも嫌だし。昨今いろいろ取り上げられてはいるが、例えばソニーやトヨタのような大会社にした電話でもそう言うというのだろうか?まず、ありえないだろう。
大抵はマニュアルどおりの口調で、申し訳ないがその類だと、その後の展開にはほとんど期待を持つことはできない。一度、展示会施工会社のセールスに「では、○○のような場合は?」と水を向けると、いきなり別の人に代わった。最初の女性は一体何だったんだろうか。即座にお断りせざるを得ない展開だった。
非常に珍しい例では、京都の大福屋さん。
受付からのインターフォンをとると…。「失礼ですが、わたしどもは京都の大福屋です。本日大福を持って皆様を訪問しております」
オフィスに大福。あまりの唐突さに逆に興味を覚え、出てみると本当に木製の入れ物を肩にかついだ青年。しゃきっとした白い衣と帽子をかぶっている。
そして、つい先日はTシャツとジーンズ姿の青年。「失礼します。あの、上野の八百屋なんですが、本日は朝からみかんと金柑を持って回らせていただいています」
なるほど、みかんと金柑だけを箱に抱えて持っている。
オフィスに飲料水のセールスはよくある。しかし、その他の食関係のセールスはちょっとそぐわない感じを受けるが、実に私は、大福も金柑も買ってしまった。まず、セールスに来た時間帯が非常にナイスだった。定時直前の6時ちょい前ごろ。これなら買っても文句も言われない。自分で持ち帰って食べればいいだけだ。6時を過ぎると逆に失礼な印象を与える。このへんはさじ加減だろう。それから、商品についてこちらの好みを伝えるとすぐに対応してくれた。大福はつぶあんではなく、私はこしあんが好きなんだ。
八百屋さんの『煮たりしなくても十分においしく食べられる』という金柑をほおばってみるとなかなかおいしく、この花粉の季節にぴったりだった。金柑とみかんで1000円というのだが「金柑だけでもいいです」というので、金柑だけ500円で購入。ちょっと高いのかな。でも、いいや。それに、売り手の会話が良かったりすると、ちょっとした息抜きにもなる。マニュアルどおりでなく、その人が売り手として商品を知っているプロであれば、おのずとそこに会話が成り立つ。その日、私は花粉症が爆発していて非常に苦しかった。金柑のお代を払う時にその八百屋さんは言った。「花粉症です…か?…金柑…花粉症にも効くとかなんだとか…」キメ台詞としてはなかなか、かな。買うほうも半信半疑だが安心する。おいしければそれでいいし。
まあ、セールスというのはもともと「欲しいという需要のあるものをお届けする」ものだが、その前に「その需要を打診する」というのももちろんあるだろう。だが、やみくもに「いかがですか?」といわれても大きなお世話だったりするのだが、この大福屋や八百屋のように、唐突でも、時宜を得ていれば、一服の清涼剤にもなる。しかも、一年にこんなことはそうそうおこらない。それがまたいい。
3〜4年ほど神谷町で働いていた時のビルは、港区に大きな勢力を誇る『森ビル』の最も古いビルのひとつだった。古くても、8階建てのビルに20社以上が入っており、6基のエレベータは毎朝、大混雑していた。この会社はアメリカ資本の会社で総勢30名足らずの会社で、受付の電話の大抵は総務の女性がとっていたが、たまに私たちのところでもとっていた。しかし、お客さん以外はやはり、セールスは人材紹介会社くらいで、当時、大福や野菜のセールスは見かけたことはなかった。もっとも、大福は有名な大福屋がビルの隣にあったし…。しかし、そういえば毎朝ヤクルトさんは来てたっけな。朝、その電話をとってしまうと、「『ヤクルトさんで〜す』と言うのがちょっとつらい」とセールスの男の人が言っていたっけ。
この地域は今、猛烈に開発されている。『東京は空も地下もすべてをのみ込み増殖する』というようなタイトルの番組を見た。しかし、そんな中には、さっきのようなひとこまもあるわけで…。
東京には世界で2番目の長さを持つ地下道路網が出来るらしいが、それが私の通勤の地下鉄丸の内線の途中駅『中野坂上』の地下では、何とその駅のたった2m下をくぐるらしい。しかもそのまた何メートルか下には都営大江戸線が併走して…。東京の地下は穴だらけとは聞いていたが、それがますます増殖しているという。もちろん専門家に十分考察されているのだろうが、大丈夫か、地震・災害対策。
さて、帰宅し、ひさしぶりにTVをつけた。
すると、そこに私がひそかに応援していた選手が。あの体操の冨田洋之選手がNHKに映った。しかもうれしいことに特集が組まれていた。
「貫き通した美学〜体操〜冨田洋之」
冨田選手をこれ以上見事に表現できるタイトルはないだろう。自分の信じたことの軸を決して変えることなく、静かな闘志で最後まで自分の信じるものを貫き通した冨田選手。くやしいこともあっただろうが、それでも北京オリンピックの閉会式で、また引退の時の彼の言葉からは、心から幸せな充実感を感じ取れた。人間、やはり、こういう姿が一番美しいなあ。
今、彼が小さな子供たちを丁寧に教えている姿が映された。
私も大きな満足感を得て寝床についた。
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