Vol.69  東京徒然に [2008.6.16]
 「ほうらいやのおおだんなさんから。ちょっとご子息さまにご借用がありますって」
この言い方に、私はいきなりお江戸の茶屋でくつろいでいるような錯角に落ちた。
板についた『おおだんなさん』という言葉を日常の中で、私はこの時多分
はじめて聞いた。
 九段下の小さな店でお昼をとり、最後の小さなあんみつを食べている時のことだった。
その店では、ものごしにとても雰囲気のある、かなり年輩のおばあさんが、
実に丁寧に接してくれるのだが、そのおばあさんが電話をとったあと、
少し離れたところにいる息子さんに声をかけた時の話だ。
金魚鉢が2つ。店の入り口に置いてある。
帰りのお会計では、ちょっとした会話をするのも忘れない。
「カタカナには弱くて...」
おばあさんは、はっきりとした江戸のアクセントでゆっくりと言いながら笑い顔を見せた。

 その次の日だったか、ふと思い立ってお昼に電話をした。チケットぴあ。とれない、
つながらないので有名だが、その日は3回めにつながった。今日、紀尾井ホールで
たった一日行われる、全席ソールドアウトのコンサートに行きたくて無謀(!)にも
電話をかけてみたのだ。.全席ソールドアウトだもの..とれるはずは、ない。しかし、
電話口の女性から思わぬ良い返事。
「何枚かキャンセルが出ていますので本日2時までならぴあ、もしくはコンビニで
お求めいただけます。ただ、それまでに売り切れた場合は当日券はそれでおしまいと
なりますが」
最近はコンビニと提携している実に便利なシステムがある。女性はそのための番号を
教えてくれた。早速コンビニに直行。するとS席が1枚とれた!
その後はウキウキ、仕事もしっかり行い、定時に終えて紀尾井町へ向かった。
それはシタールの一日だけのコンサート。あのビートルズも夢中になった
ラヴィ・シャンカールの娘のアヌーシュカ・シャンカールのコンサート。
彼女のお姉さんはあのノラ・ジョーンズとは。
 まず、劇場に入ると目に入ったのがステージ上の絨毯。魔法の絨毯みたいに
エキゾチックに見えた。
大好きな公演のはじまる前のホールの雰囲気。きれいな女性もたくさん聞きにきている。
自分ももっとお洒落して来たかったんだけどナ、などと思いながら、ロビーで出されていた
白ワインを飲む。
しだいにホールが暗くなると、青紫色の鉱物的なスポットライトが絨毯とマイクと
タブラという楽器を照らした。そして彼等が、そしてアヌーシュカが入って来た。
赤い衣装。にこやかに合掌して座る。そのあとはめくるめく、時にまるでマハラジャに
いるかのような、時に砂漠を照らす月のような音と世界。ステージは青紫に神秘的に、
またはマサラのようにゴールドから赤、紫と照らされる中、彼女とそのミュ−ジシャン達は
まるでお伽話の中の人たちのようだった。
私は今日来れた事に心から感謝した。こんな時間をもらったなんて!
 帰りには、この公演をラジオで紹介してくれたDJとすれちがった。おもわず
『番組いつも聴いていますよ!』と声をかけると、たちどまって丁寧なおじぎとお礼の声を
かけてくれた。ミラクルな夜だった。
空には半月に近い三日月。紀尾井町の空は意外と広い。
『月の砂漠をはるばると...』ではないが、月とともだちになったような気さえする夜だった。
少し前に友達と見た『モロッコ』の写真展。そこで出会った奇跡のように美しく
ミステリアスな砂漠の民の少女の瞳の映像とも重なった。美しいものを造り出す人の
エネルギーを感じ、心から魅せられた夜だった。

 そして幾日か過ぎた日の朝。
いつものように地下鉄の乗り換えをしようと、いつものちょっと広いコンコースを歩いた。
すると、プラカードを持った、制服の女性が目に入った。
『新宿副都心線開業記念式典はこちらです』
そう、今日は新宿副都心線が開通だ。渋谷方面へのアクセスが短縮される。
『東京メトロでは9線目となる「副都心線」が2008年6月14日、開業する。埼玉県の
和光市駅から渋谷駅まで全16駅。』だ、そうだ。
ひさしぶりに見る白いテープ。朝8時ごろ。尽力された関係者と見られる人たちが
集まりはじめていた。 テープカットの瞬間を見てみたいな、などと思いながら、
私は会社へ向かった。
 東京はまだまだ進歩し続けている。こんなにいろんな新しいビルが出来ても、まだまだ
『未完』である姿がとても初々しく思えた。そして何かを成し遂げてお祝する姿は
素敵だと思う。

 ふとひさしぶりに晴れた週末。ふとんを干そうとベランダによりかかると、眼下にある
なにやら白いきれいなものが映った。見るとドクダミの花が実に可憐に庭を飾っていた。
深い緑に咲く白い花。いい具合の量とちらばりかたをしている。夏用のワンピースの
模様のように見えた。
 さして手入れをされていない庭。しばらく前に雑草の刈り込みがされたのにだけ
気付いていた。そのあとは雨ばかりでベランダに出る機会もなかったのだが。
部屋の中でもオリヅルランの花がかわいく咲いている。
また夏がやってくる。
-END-
 

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