Vol.65  二月のブエノスアイレス [2008.2.12]

 携帯がふるえている。
思わず手にとると、メールの着信。
『突然ですがタンゴとか興味ないですか?』
頭の中にアコーディオンの音色とアルゼンチンの首都ブエノスアイレスという言葉が
浮んだ。
ラティーノのエキゾチックな顔だち。ブエノスアイレスという響き。

 当日劇場にはギリギリの滑りこみだったが、席につくといつものように高揚。
劇場で幕が上がる前のあのカンジが大好きだ。
そして、はじまった。

目の前の空間で生身の人間が、今ここで躍っている。修正もコラージュもない。
複雑に蹴りあげられ絡み合う美しい足。身体。照明。せつないラテンの音色。
彫りの深い顔だちと広い肩幅には中割れ帽がおそろしく似合い、独特の重量感で動く
男達の群舞。
輝きが客席にも届くほどに大きな彼女達の瞳としなやかな肢体。それがキリリと男達に
挑むように踊る。
すべてが絶妙に絡み合い、舞台全体がめくるめくラインを描いては変化していく。

どうしようにも、違うDNAがあるということ。『文化』

いっしょに行った若い友だちも歓声をあげた。 帰りのロビーには多くの熟年のご夫婦。
本当に満足するとくる静かな波のようなものがあたりをつつんでいたような気がする。

******* 

 その日劇場へ向かうころから、ごく小さな氷のつぶが私の額を軽くたたいていたが、
舞台が終わるころには白い雪が空から浮遊するように舞い降りて通りを覆いはじめていた。
そして帰路、私の住む杉並区の路地はまるで、雪国の様相に変わっていた。
いつもよりうんと用心深くペダルを踏む私の自転車のライトがあたりを照らすと、
シンシンと雪の降る音が大きくなるようだ。
いつもの空地も白い空間に変わり、どこか知らないところへ来たみたいだ。

『ブエノスアイレス』
この言葉がまた頭に浮ぶ。今どこか見知らぬ街を進む自分がいるようだった。
-END-

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