もう、すっかり秋。ふしぎですね。どこからセーターを着るようになったのでしょう?あんなに汗をかいていたのに。日々刻々と、それがグラデーションのように変わっていく季節。昨日、夜半の雨の中、ベランダに出ると、雨音が強くなっても、どこかでこおろぎが一生懸命音をかなでつづけていました。あれは求愛の音楽ですよね。今回は、変わる毎日の中である日突然魅せられた、何年たっても変わらないあることをお話してもいいでしょうか。 |
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ヌバという部族を知っている人はいるだろうか。
もう、20年以上も前に私が浪人生のころ、ここのところ、多額の負債をかかえたり再生したりの西武百貨店は当時、その斬新な広告戦略で全盛期だったように思う。池袋の西武百貨店本店には西武美術館というのがあって、そのころはまだ、マルセル・デュシャンなどの、「先鋭」を感じさせる展覧会も行っていた。
実際、私がこれからお話する展覧会については、実はいろいろと余裕がなく見過ごしてしまった。ただ、その会期中も見に行けなかったその後も、そして今に至るまで、わたしを魅了し続けている、ある映像がある。 |
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20年以上前のある日、そこでは、レニ・リーフェンシュタールによって撮影されたアフリカ、スーダンの少数部族『NUBA(ヌバ)』という展覧会が行われた。
レニ・リーフェンシュタール。彼女は精力的な人で、かつ長寿のようだが、彼女の若いころ、当時はヒトラー政権下で、彼女とヒトラーはなにがしかの関係があったといううわさもある。しかしながら、彼女の1936年開催のベルリン・オリンピックを撮った『オリンピア』、日本では「民族の祭典」と副題でビデオにもなっているが、その映像は、彼女が人間の肉体を通してその何か、存在だろうか、を表現したかった、ということを語るに難しくない。もっとも彼女は、90才を越えたころ、海の生物を撮影している。それは彼女が行き着いた「あるところ」なのであるのだろう。
しかし、このアフリカの「ヌバ族」の撮影で彼女はもっとも世の中に印象づけられたと思う。彼女もある日目にした1枚のヌバ族の写真に惹き付けられ「どうしてもこの人たちに会いたい」と漠然と持っていたアフリカへのあこがれを決定的にして、スーダンの奥地へ出向いたそうだ。
私はその展覧会を観に行きたくてしかたなかたのだが、結局見に行けなかった。しかたなくその展覧会のあと、美術館付属のアール・ヴィヴァンという洋書の美術書を多く取り扱う本屋にNUBA(ヌバ)を見つけた。夢中でめくっていくと、そこにあらわれる彫刻のような黒いひとたち。人間。そしてその形、筋肉、そしてそれをささえる筋、骨、皮膚、そして何よりそこにある、生活、様式、デザイン、動き、ひとのぬくもりと、そして生きているということ。
そして、レニを通して画像になった、その人々とその「日常」。それが芸術品のような美しさをたたえていた。当時一日中ギリシャ彫刻の模造品のデッサンをしながら、かたちということ、それを感じること、それを実現しようとする事などに取り組もうとしていた私は、
これが人間の、「かたち」なのか、と目をうばわれた。私には、人間が人間としてもらった「かたち」を最も美しくまとっているような気が
してならなかった。そして、彼らの身体装飾も又、私にはすごい魅力だった。モダンなデザインでほどこすお祭りのメイク、塗りたくった土と油で光る日常に鍛えられた身体。部族全体が文字どおり芸術、彫刻のようなのだった。
西洋人であるレニをとりこにしたNUBA(ヌバ族)という、その全体は、その美しい「かたち」だけでも充分だ。しかし、外部の何かを魅了するその根っこには、
いったい、どのような「約束事」があるのだろう。そして、どんな「秩序」があるのだろうか。どうやったらみんながあんなに美しくあるのだろうか。そんなことまで強く感じさせられてしまうのだった。
何か、その全体が他を魅了するということは又、すごいことである。それをなにがしかで実現しようとして、現代社会も、そしてその周辺も又、もがいているのだろうか。そんな世を尻目に、写真集の中で、彼らは、ただ、美しく在るのだった。「生きている」という美しさ、そう語るのは陳腐だろうか?しかしその時、私にははっきりとそう思えた。この「かたち」が生きていること。そのことに文字どおり「感動」していたのだった。
当時お金がなくてその写真集を買えなかった私は、なにもかもをしっかり焼きつけようとするように、閉店になるまでその写真集を見続けた。人間の美しさにはいろいろとある。しかし、ここでの「かたち」は私の心に強い何かを訴えた。
その後、だいぶたってから手に入れたその写真集。もう、20年以上もたってしまったが、いつ見ても、初めの感覚と同じだ。もう、この部族も「かたち」を変えたかもしれない。でも、私にとっては永遠だ。私が出会った時期もあるだろう。あの時あのタイミングで出会ったから、こんなに心にきざまれているのかもしれない。
それにしても、日常、そして、ひとりの「自分」というのはこういった無意識の数々の出合いに又、ふちどられているものなのだと思えてしかたない。 -END- |