あの日私は5時間歩いた。しかし帰れた。東京は、今、被災地ではない。
今は、微力ながらも節電、節水、節ガスあるのみだ。
大変なことになってしまったが、きっと日本人はできる。
その日、私は仕事でショーケースやシャンデリアなどのガラス満載の場所であの揺れを経験した。しかもその揺れはかつて経験した事の無い長さで、どんどんどんどん大きくなって行くのは本当に恐ろしいものだった。
「本当にくるぞ!」
だれもがそう思ったに違いなかった。しかし、既に東京のその中でも、人のためを思って行動する人がいた。
あれから一週間、東京にいてもほとんど毎日眠るころに余震が来、そしてまた余震で目を覚ました。そして実にさまざまなことを考えさせられる長くて重い時間だった。私が使用する地下鉄のダイヤは50%から80%の運行だから、会社に行く事ができた。不安の中、いつもより1時間ほど早く出ても電車の中でせんべいになるかと思うほど混雑した。それだけ、皆が普通に通勤しようとしているということだ。そして、誰も声高に文句を言ったりしない。
計画停電は実施も受ける方もはじめてのこと。もともと私はあまり夜、あかりを灯さないが、今ではTVかパソコンのみをあかりにし、背中にホカロンを貼ってエアコンも極力使用しない。
私の地域は、実はどの停電グループにも属していない。ここで生まれた八百屋のおじさんがいうように『村』だからだろうか。もちろん杉並区だ。駅から歩いて20分ほどかかり、バスの沿線でもないからか。でも、まわりの家もうんと暗くしている。実際今できることはそれだけだ。
被災地のみなさんや救助復興活動をしている方々を思うと、いくらしても、し足りない想いでいっぱいだ。
友人とメールで安否を確認している間、ある友人がこんなことを言った。
「海外のメディアもチェックしてみると海外の見方がわかるかも」
BBCを見てみるとそこは原発事故一色だった。他の国のメディアにも原発のことだけしか書かれていない。海外の友達からもいろんなメールをもらったが、一様に、本当の状況がわからないようだった。そのころ私たちには、まるで爆撃を受けたかのような東北の荒ましさ、しかしそんな中での東北の皆さんの素晴らしい在り方が伝わっていたから、その事を伝える努力をした。
あたかも東京は、もぬけの殻のような情報も飛び交っているらしく、メディアの脚色や国民性の違いで、事実が覆い隠されるような状況に憤りを感じた。
しかし、『日本人というもの』を知る海外の人、自国のメディアの偏った報道に憤りを感じている人もいる。そして、どこにいても同じ気持ちでいる人たちがいるということが、この情報の波をくぐりぬけてみるとわかるのだった。
原子力発電所。成田空港ができる時のような大きな反対運動を私は記憶していないから調べてみた。日本には北海道から鹿児島まで実に17箇所の原子力発電所がある。そしてそのうち8カ所が今回の地震域にある。福島には現在の2カ所に含めもう一カ所始動予定の原発がある。そして、日本海側の福井には4カ所もある。これらに加えて、停止した原発、そしてこれから予定されているものもある。今の17カ所は、私の生まれた1960年代から続々と竣工。日本の高度成長期をずっと支えてきたのだ。実際、原発は決して悪者ではなく、東京をはじめとする都市部・産業、そして我々の贅沢のために動いてきたわけだ。
そして今、必死の復旧作業をしている方々がいる。
今も東京でも余震は続いている。これを書いている最中にも2度も。
今は、ただ、一刻も早く東北と北関東の人たちの寒さと餓えとあらゆる不自由が和らぐための協力をし、そして原発事故が収まってくれることを願うだけだ。
あらためて地図をみると、全く華奢な日本。
災害は、いろんな角度からやってくるものだ。そして、残念ながら予知が難しい。人間は常日頃、質素な暮らしの中に心が豊かになる方法を見つける生き方が大事だ。皮肉にも、それが身にしみてきたのではないだろうか。是非、日本中、できれば世界中のひとりひとりが、ほんの少しでもこの気持ちを持てば、全体はおおきく穏やかになるのではと思う。
いろんな意味で『塵も積もれば山となる』から。さて、何を積もらせようか。
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